4-33:白

***

 まどろみの中、それが何なのか分かるには、しばらくかかった。

 白い。

 冷たい。澄んでいる。

 寒い。痛い。くすぐったい。

 懐かしい心地だ。だんだんと感覚が追いついてきて、奥に仕舞っていた記憶と重なって出てくる。今どういう状態なのかが分かってくる。もう随分と前のことのようだけれど、うん、思い出せる。

 埋もれてるんだ。

 この冷たさ、この心地、どこからどこまでが自分なのかはっきりしてくるこの感覚。内側にある熱や重みが浮き彫りになって、自分の小ささを感じられる。

 ずっとこんなふうに、全身を深く沈めたいと思ってた。

「雪だ」

 つぶやくと自分の声がした。ちょっぴりこもった音。聞き間違えたりはしない。

 茶色いマイケルは今度こそ、目をしっかりと開けてその白をようく見た。

 小さな結晶の寄り集まった、深い白。ほっと息を吐けばあっけないほど簡単に溶けてしまう、儚い白色。その中に沈んだ身体。10センチ……いや、30センチは埋もれてるのかな、少し顔を動かすと空の色が見えた。こっちが上らしい。

 あれ、何してたんだっけ、ボク。

 早く起き上がらなきゃという気はしてる。でもひっそりとした冷たい空気が心地良くって、ずっとこのままでもいいなって思っちゃう。

 雪の向こうに見える空。空の色を透かして見せる雪。

「きれいだなぁ……」

『何が?』

「何がって、あれだよ」

『どれだ?』

「ほら、ボクの目の向こうにある――」

『空か?』

 キュッと目の奥の筋肉が締まった。声? どこから? 誰? わーっと押し寄せる疑問の波のあと、何かとても大事なことが引っかかった気がして、だけど思い出せないでいると、そこにもう一度声がかかる。

『なぁ、何がきれいなんだよ』

 声は少しばかり尖っていた。よく考えて答えなさいと鼓動がうるさい。とはいえ頭はすっきりしていたし、他に思い浮かぶこともなかったから、

「雪だよ」

 と答えたよ。すると声は、

『はーん、つまんねーの。空って言ったらぶっ殺してやろうと思ったのに』

 なんて気軽い調子で言うからドキッとする。ま、ぼうっと雪に浸っていたから、そのまま話を続けたんだけどね。

「キミは神さまでしょ」

『何当たり前のこと言ってんだ。お前、ネコだろ』

「ははは、当たり」

 素直に笑い声が出た。

「ねぇ神さま」

『なんだ、ネコ』

「神さまは、何の神さまだろう」

 茶色いマイケルは雪に埋もれた上半身を持ち上げ、声のする方に目をやった。だけど何もいない。ううん、見えない、が正しいんだろう。そっちを向いた瞬間にヒゲがヒクヒクと震えたんだ、きっとその辺りにいるはずだ。

 どこかなと探していると、

『お前たちって目が腐ってんじゃねーの? しゃーねーな』

 雪が舞い上がり、うねりながら視線の先へと集まっていく。岩の上にこんもりと積もった雪の辺りが、度の強いレンズをあてがったように曲がって膨らんで動きだした。

『ほら、これで見えるだろー?』

 背景が一色だったなら見えなかったと思う。雪の粒が無くても分からなかったかもしれない。動かなければきっと気づくこともできなかった。

 それを知ってか知らずか、大げさにカリカリっと後ろ脚の爪で耳を掻いている。

「風ネコさまだ」

 四つ足のネコ。『神域接続の間』で見た神さまたちの姿と同じだ。

『まーそんなところ。お前今、”大空”に似てるって思っただろ』

 入れ物だけなら似てるかもしれない。

「ううん、大空ネコさまはどこにいても”空”だったからね。透明な風ネコさまみたいに、向こうの景色は見えなかったんだ」

 風ネコさまは『ふーん』としっぽをくねらさせた。後ろ脚で掻いた雪が音もなく舞ってふわりと落ちていく。

『まーいーや。間違ってもあんな奴と一緒にすんじゃねー、いいな。もし一緒くたにしやがったら皮を剥いでカラッカラに乾かしてどっか遠くに吹っ飛ばしてやるからなー』

 シュッシュッとネコパンチを繰り出す姿に、「怖いなぁ」と温かい息をはく。

「風ネコさまは大空ネコさまがすごく嫌いなんだね」

『あんなイカレたヤツ、好きになるもんか。ぶっ殺してやる、ぶっ殺してやる』

 風ネコさまはぐるんと寝っ転がって、何もない宙を掻きむしる。苛立ってるのかどうかは分からない。ただ大空ネコさまほど怖いとは感じなかった。茶色いマイケルはその姿をしばらくじっと見ていたよ。眺めてるだけで一日過ごせそう。

「風ネコさま、助けてくれてありがとう」

『はぁ?』

 トゲのある言い方は、お礼の言い方が気に入らなかったわけじゃないみたい。

『誰がお前なんかを助けるかよ。ケラケラ笑ってたのが聞こえなかったのか?』

「えっ、笑い声は聞こえたけど……」

 地面に落ちる直前に感じた強い風を思い出していた。あれで加速が一瞬和らいだから助かったんだとばかり思ってたんだ。

「でもさ、あんなに勢いがついてたのに、落ちて助かるはずがないじゃない」

『知るかよ。お前が勝手にびゅーんと飛んでこんなところまで来たんじゃねーか。せっかく、スッゲー下まで落ちるように遊んでたっていうのによー』

「びゅーん?」

『まー、ここに来たらっていう約束だったし、最後はそうしたけどなー』

「約束?」

 身に覚えのない事を言われて、頭に乗っていた雪がするりと落ちた。風ネコさまはつまらなそうに、

『なんだ、やっぱり忘れてるのか。これだからネコってやつは』

 とお尻のあたりを舐めていた。

 忘れてる? としっぽを傾げてみても、答えてくれる気はないらしい。

『でもよー、ホントにここに落ちるなんて思ってなかったからビビったなー』

「……そうなんだ」

 よくわからないことは色々ある。知りたいこともある。だけど不思議とそれ以上聞こうとは思わなかった。聞かなくていい気がしてたんだ。

「でも助かったよ。声をかけてもらえなかったら、ずうっと寝っ転がったままだったかもしれない。だから、本当にありがとう」

 するとどうだろう、風ネコさまは前触れなくひゅうと吹きあがり、空中で踊るように暴れた。四つ足をじたばたと動かししっぽも振り回したよ。意味は分からないけど。

『まぁ、お前に何かあるとオレが怒られるからなー。怒られんのはいやだ。世界がどうなろうがオレには関係ねー。どこにでも風はあるし、むしろ世界っていう檻が壊れてくれたほーが、広々としていーかもしんねー。でも、怒られんのは嫌いなんだ、オレ』

「あはは、同じだね」

『うげ、お前と同じかよー』

 そう言った風ネコさまはしばらくの間、よくわからない動き(踊っているような、何かとケンカしているような、ほんの小さな子ネコがするような動き)をして、茶色いマイケルの視界を賑わせていたけれど、ふとピタリと動きを止めて、

『じゃあな、あとは死ぬなりくたばるなり勝手にしな』

 と言って上へ上へと昇っていく。

「えっ、もう行っちゃうの?」

『なんだ、助けて欲しーのか?』

 透明だから顔は見えないのに、どうしてかニヤニヤと意地悪く笑っているのは分かった。

「ううん、もう少しお話出来たらなって思ったんだ」

『……相変らず調子狂うやつだなー。ま、お話なんてしてやらねーけど』

 ケラケラケラと笑う。ただ、ひとしきり笑い終えた後に、

『大空のヤツには気をつけろよー。あいつほどタガの外れたヤツはそーいねーからな。いや、あいつの周りには結構いるな』

 と急に真面目な声になり、『せいぜい気をつけろ』と言い残して今度こそ、しゅるんと消えた。

 茶色いマイケルはその様子をぼうっと眺めていた。どれくらいかは分からないけれど、短くない時間だったと思う。それを夢かもしれないと思ったのは、もしかすると間違いじゃないかもしれない。

 だってさ、瞬きを一回した途端、

「おい、無事か! しっかりしろ、茶色いマイケル!」

 ってスゴイ勢いで肩を揺すられてたんだからね。

コメント投稿