(96)8ー14:オセロット

***

 声がしたのは、子ネコたちの集まりの中からだった。

 入り口からくる光を背にした茶色いマイケルは、ゆるくカーブした壁に沿って並んだネコたちを順番に見渡した。右端から順に虚空のマイケル、灼熱のマイケル、マルティンさん、ケマールさん、そして果実のマイケルだ。

 白骨のボーガンを構えるケマールさんの正面にはずんぐり獣のマークィーがいて、茶色いマイケルの左にかるくもたれかかっている。

 他にも小さな神ネコさまたちがあちこちに散らばっているけれど、みんなの視線は茶色いマイケルの左側、マークィーを挟んだ向こう側へと注がれていた。

『叶えたい願いがあるんだろう?』

 横たえていた細身の身体を起こしたのはオセロット。ほっそりとした体つきで小ぶりなヒョウにも見える。器の中は薄暗く、そこには何本もの細い線が揺れていた。

『ここで時間を食っていていいのか?』

 重々しい口調のわりに声は細い。それでいて不思議な威厳があった。ただし茶色いマイケルに気兼ねはない。

「時間を食うって言っても休んでるんだし」

『だが特別賞を狙うのなら何を置いても先へと進むべきだろう。ここを抜ければゴールはもう目の前なのだから』

 もうすぐゴール?

 思いがけない情報に身を乗り出しかける。けれどすんでのところで留まった。周りにはケガや疲れでぐったりしたネコたちがいるし、まだ回復しきれていない神さまたちも横たわっているからね。

「放ってはおけないよ」

 オセロットは小さな頭を傾げた。

『神のことか? なら心配いらない。この場所で十分に回復できるだろう。幸いこの獣――マークィーも好意的だしな。他のネコに関しては置いていけ。そもそも追い抜かれては意味がない』

 オセロットは茶色いマイケルをまっすぐに見てもう一度強く言う。

『特別賞を優先させるべきだ』

「でも……」

「まぁ待ってくれ」

 話を引き継いだのは灼熱のマイケルだ。森で逃がしてくれたお礼を言ったあと、

「忠告はありがたいのだがワシらはワシらのペースで進ませてもらう。確かに特別賞は魅力的だ。叶えたい願いは1つや2つでは済まんし、そういう年の頃だからな、願いが無いと言えば嘘になる。欲を言えば狙いたい」

 ニヤリと笑う。

「だがそう欲張るものでもないだろう。目指すは完走。それで十分にのぞみは叶う」

 清々しくて目の前がぱっと晴れたように思えたよ。だけど、

『は?』

 助言が届かなかったことへのイラだちとは違う、何を言っているのか分からないという声だった。

『完走だけではお前たちの願いは叶えられないぞ?』

 今度は子ネコたちが目を大きくする番だ。

『完走して手に入るのは力だけだ』

「ちからぁ……?」

『そうだ。『嘆き』を乗り越えるためだけの、ごくごく限定的な力。その力で変えられるのは心のありようだけだ。身体という器に囲われた想いだけで、心以外は変えられない。たとえ自分の肉体であってもな』

「で、では外側を、たとえば世界を変えたいと思うのなら」

 かろうじて虚空が言葉を返す。

『入賞か特別賞、どちらかが必要だ。それならば星の大神に願いを叶えてもらえる』

 樹洞の中はほんの少し湿り気を帯びている。足元は柔らかくて、ヒザを抱えて座っている茶色いマイケルは、お尻がずんと沈んでいくのを感じたよ。

 願いを、叶えられない……?

 強い光をカッと浴びた気がして思わず目をつむった。ぐわんぐわんと耳鳴りみたいなものが渦を巻いて迫ってきて、まぶたの裏がかき混ぜられていく。まっ黒に、塗りつぶされていく――。

 そこには、どこかで見たような暗闇があった。

 カチ、コチ、カチ、コチ

 ――ようこそいらっしゃいました。

 時の女神さまのいた部屋だ。暗闇の中に浮かび上がる、星々のような『世界の大時計』。少し離れたところには板チョコみたいな扉もいくつかあった。

 ――たとえ願いを叶えたとしても、こうなってしまった世界は救えません。

 ハッとした。そうだあの時、時の女神さまはそう言ったんだ。そもそも願うだけではダメだった。次いで腰の荷物袋の中身を意識すると、ホロウ・フクロウおじさんの言葉も思い出す。

 ――『星の芯』を目指しなさい。そこにある秤に『ティベール・インゴット』を置く、それが君たちに託された使命だ。

 だとしたら、今すべきは――。

「このままで行こう」

 目を開けて、お腹に力を込めて静かに言った。

「ボクたちの目的はやっぱり賞じゃない。完走賞を貰えるならラッキーさ」

 目的はティベール・インゴットを秤に置くことなんだ。特別賞も入賞も、完走賞だってオマケでしかない。オマケなんかのためにこの場を放ってなんか行けないよ。

 茶色いマイケルはティベール・インゴットのことをぼかしつつ、「ボクたちはみんなでゴールを目指すから」と、きっぱりと言いきるつもりだったんだ。

『ティベール・インゴットを秤に置いたとしてもこのままでは表の世界は変えられないぞ』

 頭の中が真っ白になった。身を、乗り出すことさえできない。

『神たちの変容が甚だしいのは知っているな。あわあわの大渦のうねりが大きくなりすぎて表の世界にまではみ出してきているんだ。こちら側でできるのは特別賞に願い、一部の神が自らそうしているように神たちをシステムとしてまとめてしまう事くらいだろう。だからお前たちは……』

 先へ先へと展開していく話に、茶色いマイケルは取り残された。どうにか拾えたのは最初の一言だけで、それもまた時の女神さまの口から聞いた言葉だった。

 ――神たちが変容してしまっているのです。

 疑問がわっと溢れてくる。

 あわあわの大渦ってなんだろう。神さまたちをまとめるってなんだろう。ティベール・インゴットを秤に置いても意味がないならどうしてそんなもの。誰も教えてくれないのにどうしてこの神ネコさまは当たり前みたいに言うんだろう。

 その時、視線が合った。

 途端、オセロットの言葉がぷつりと切れる。そして『なるほど』と一言だけ言って、お尻をついてその場に座ったよ。

 そのまっすぐな背筋を見て茶色いマイケルも姿勢を正す。周りからも衣擦れの音が聞こえてきた。静かに、深く息を吐いていく。それでもしっぽは揺れていた。

『いいだろう、俺の知っていることをお前たちに教えてやる』

 視界の端ではなぜか小さな神ネコさまたちまでがそわそわしはじめた。

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