(85)8ー3:ボコられマルティン

***

 潰れたシルクハットがその形をさらに歪ませる。

 イタチに似た神ネコさまが短い足で踏みつけたんだ。

『裏切りネコ野郎ぉ』

 神ネコさまは長いしっぽを楽しげに揺らしながら小ぶりな身体をしならせ、帽子をぐりぐりと地面にねじ込んでいく。その器の中ではたくさんの小石が飛び交っていて、今にも飛び出しそうだった。

 帽子の持ち主ネコは銀色の大樹に背中を預けたままピクリとも動かない。そこへ、

『覚悟しろ』

 耳の尖った神ネコさまがマルティンさんのお腹に頭を押し付けた。耳先からはカラカルと同じように長い毛の束が生えていて、グリグリと頭をこするたび揺れている。器の中には薄くて白い靄が充満していた。

 マルティンさんは苦しそうに「ぐっ」と声を漏らした。

 茶色いマイケルたちは離れた大樹の裏からその様子を見ていた。下手をすれば声が聞こえるかもしれない距離だ。だけど。

「ひどい! イジメだ!」

「落ち着け茶色。声が大きくなっているぞ」

 虚空のマイケルがささやき声でたしなめる。

「ごめん、でも……」

「どれがイジメなのだ? じゃれ合っとるようにしか見えんが」

 首を傾げる灼熱のマイケルは少し困ったような声だったよ。

「ええぇ……どう見ても一方的でしょぉ」

「それにしゃべってる中身からしても」

「すまんがこの距離だとワシはまだ聴こえんのだ。そうか、鍛錬というわけではないのだな」

 子ネコは腕組みし、納得した様子でうなずいた。

『ありゃー礫(つぶて)と霧だなー』

 肩に乗った風ネコさまが幹の向こうをのぞきこむ。その名前には聞き覚えがあったよ。クラウン・マッターホルンにいた神ネコさまだ。

『あのしっぽのなげーのが礫でフォルムは『ジャガランディ』。よく草食うぞー。んでしっぽのみじけーのが霧なー。フォルムは『オオヤマネコ』だなー。木の上でギャーギャーケンカす』

『余計なことはするなよ』

 背後から鋭く割り込んだのはオセロット。子ネコたちを見据える姿は堂々たるもので、細身なのにずっしりとして見えた。

『関わると騒ぎになる。ここがどこか忘れているわけではないだろうな。お前たちがマークィーと呼ぶ、あの獣の棲家なんだ。いくら数の多い場所を抜けたといってもヤツらの庭であることには変わらない。騒ぎ立てれば集まってくるだろう。こっちは大匹数なんだ、冷静に対応しろ』

 でも、と言いかけた茶色いマイケル。その視界には、『白い群』『3匹のクロヒョウ』と弱ったジャガーネコがすっぽり収まっていた。みんな身を寄せて目立たないようにしている。小さな神ネコさまたちまでも。

 クロヒョウの1匹が茶色いマイケルの袖を咥えた。オセロットはさらに言う。

『このクロヒョウがお前を止める意味を考えるべきだ』

 ハッとしたのは果実のマイケルだ。

「もしかしてぇ、礫の神ネコさまたちもオイラたちを狙ってるってことぉ?」

 茶色いマイケルはすっかり忘れていたけれど、無口なクロヒョウたちは元々刺客だったんだ。

「見つかれば問答無用で襲ってくるかもしれないな……」

 虚空のマイケルはあごに拳を当ててうつむいた。考えに沈み込んでいく目をしている。灼熱のマイケルは眉間のシワを揉んでいて何か言う様子はない。

『まー、すぐ終わるんじゃねーかー?』

 風ネコさまは言って、小さな前足でそちらを示した。

 オオヤマネコはマルティンさんのお腹に押し当てた頭をさらにぐっと押し込んだ。ネコの体が2つに折れると、上半身が覆い被さってくるのを嫌って身体を引いた。すかさずジャガランディが頬を前足で蹴り飛ばす。続けざまに肩と背中を踏みつけ地面に転がせる。

 体中の骨が折れているのかと思ったよ。ぐにゃりと頭から突っ伏したマルティンさんは尺取り虫みたいにお尻を高く上げたままピクリとも動かない。放り出された指先がピクピクしてはいるけれど、どう見ても自分で動かしているとは思えなかった。

『おらおらぁ! 死んだふりして逃げようとしてやがんだろ起きやがれ!』

 礫(つぶて)ネコさまは襟首に噛みついて成ネコを軽々と吊り上げた。首をぶんと振って木の幹に叩きつける。だらんとした手足のぶつかる音がバラバラに重なった。汚れたタキシードの破れる音がした。再び崩折れかけたマルティンさんをオオヤマネコの頭が木に打ちつけ――。

 茶色いマイケルはネコダッシュで飛び出した。

「やめてよ!」

 正面に立つなり声を張り上げる。

「何をしたのか知らないけど、そこまで追い詰めなきゃいけないことってあるもんか!」

 事情なんて聞かなくっていい。終わるまで待つ必要なんてないんだ。

 ボクにはそう見えたんだから。

 2匹の神ネコさまは子ネコを見て1秒か2秒、驚いて固まっていた。傍らのマルティンさんはずるずると、力なく大樹の根本に腰を沈めていく。

『……おい、ボスはコレ狙っていたと思うか?』

 霧ネコさまが低い声で問いかける。

『どうでしょうねぇ、なんせあのボスですから。ただ、俺らにとっては都合がいい』

 舌なめずりをしてゆっくりと頭の向きを変えていく礫ネコさま。細身ながらその動きは獰猛で、さっきの動きを合わせて考えても、勝ち目は薄そうだった。

「飛び出しちゃってごめん」

 茶色いマイケルがつぶやくと、

「ホントはさぁ、オイラが先に飛び出す予定だったんだけどねぇ」

「ふん、足が震えておるぞ。まぁ胸くそ悪いものを見せられて腸(はらわた)の煮えくり返る気分はよくわかる」

「正直なところ関わりたくはなかったが、こういうものに口を噤(つぐ)む成ネコにはなりたくないからな。相手が神であろうと微力を尽くすさ」

 周りにいた他のマイケルたちもそれぞれに言葉を口にした。みんな、飛び出した瞬間からそばにいて脇を固めてくれていたんだ。

『ははは、まいったね。投降するのかと思えば抵抗する気とはよぉ。身の程をわきまえな、ネコぉ』

『こちらとしても黙っていれば手荒な真似はしないが?』

「とてもそうとは思えんな」

 灼熱のマイケルがアゴでマルティンさんを示すと霧ネコさまは幅広の肩を器用にすくめてみせる。

『アレは裏切り者だから仕方ない。そもそもネコが何匹集まろうと』

 言いかけて、2匹の視線が子ネコたちの後ろへと流れた。すると今までの会話なんてなかったみたいに親しげな声で話し始めたよ。

『お前たち。いたのか』

『こんな場所で何してんだぁ? 散歩するには物騒な場所だろぉ』

 顔半分で振り返ると後ろに立っているのはクロヒョウたちだった。体格はオオヤマネコと同じくらいでジャガランディの2倍くらいあるのに2匹を恐れているように見える。3匹のクロヒョウたちはここでもやっぱり無言。それは霧ネコさまたちも承知しているらしく返事は求めていない様子だった。

『そうか。ネコたちを追い回していたが遊び飽きたからそろそろ終わらせようとした。そこでこの状況というわけだな?』

『そういうことなら譲ってやってもいいぜ? 遊びすぎたってことは黙っておいてやるからよ。ひとつ貸しだけどなぁ』

 クロヒョウたちは頭を低くし、ゆっくりと横に歩きながら距離を詰めてくる。狩りの動きだ。ただし。

『はははネコども。恐ろしくて動けねぇか』

『仕方のないことだ。ひ弱な子ネコの前にいるのが猛獣フォルムの神5匹ともなると――おい、何をしている』

 霧ネコさまの声がチリっと焼けた。クロヒョウたちが茶色いマイケルたちに近づいて、横に並び、前に出てきたからだ。襲いかからず、それどころかかばう位置。

『なんだぁ? 楯突く気か? 細神が? 俺たちに?』

『なにか考えがあるのか? しかし相手はネコだぞ? 考えを巡らすほどでも……』

 2匹は動揺を隠そうとせず、お互いの顔を見たり首を傾げたりしてクロヒョウたちの行動を訝しがっていた。警戒している様子はない。ただ、

『じゃーよー、相手が神ならどーなんだー? 少しは頭使うかー?』

 その声には激しく反応した。

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