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神ネコさまたちは雪煙のように消えていていた。
地面から身体を起こし、銀色の大樹を振り返った時にはもう影も形も残っていない。足元にいたはずのコドコドたちまでいなくなっている。
ズン、という音は20メートルほど離れた大樹の下からだった。ぶるぶるっと顔を震わせたマークィーが、短い両手足を軽くうしろに払った姿が見えたんだ。それが瞬きするあいだにすぐ隣を飛んでいた。すれ違いざま、牙を剥いた横顔が茶色いマイケルをギロリとにらみつける。『ち、外したか』とでも言うようにギリッと歯を軋ませた。
ずんぐり獣は大樹の幹に砲弾みたいな速度でぶつかり、いや、噛みついた。ガチッと音が立つと、遅れて地が響く。大樹は振り子のようにぐらぐらと揺れに揺れ、今にも折れてしまいそうだった。そこにしっぽが垂れてきた。
ん?
大樹に食らいつく獣の頭の上にぴょろん、としっぽが見えたんだ。
なんとも場違いな愛らしさだけど、木の枝から足をぷらぷらさせて危なっかしくぶら下がっているのは、泡雪ネコさまだった。目覚めたばかりでまだ身体がうまく動かないのかもしれない、必死にしがみついているけれど今にも落ちてしまいそう。子ユキヒョウの器の中では雪が風に吹かれたようにはらはらと舞っていたよ。
見れば他の神ネコさまたちも樹上に隠れていたらしく、泡雪ネコさまを引き上げようと前足を伸ばしているところだった。すぐ下には凶暴な獣がいるっていうのに、そうだそこでしっかりと掴んで、ちがうしっぽじゃ毛並みが良すぎて滑っちゃう、いいぞそうそうゆっくりと……ああもうそんなに動いたら! 茶色いマイケルはたまらず、
「こここここっちだよぉ!」
その場で跳びはね、足をがに股開きでジタバタさせていた。
びきびきびき
マークィーはなぜか激怒した。小さな耳を跳ねさせ、頭を振って幹にめり込んだ牙をひっこ抜く。
「一体どんな筋肉をしておるのだ」
バネがとんでもない。空中で身体をよじってバチンと音のしそうな動きで地面に着地したんだ。そしてにらみつける。なにが憎いのか初対面の子ネコに向って溢れんばかりの怒気を投げつけてくる。
野生動物に本気の怒りを向けられることなんてなかったんだ、恐ろしいよ、責め立てられている気分だ、お腹を見せて謝りたくなる。風ネコさまたちがやけに怖がっていたのはこういうことかと、今更ながらに後悔したよ。
「だめだ、バラけよぉ!」
「さぁマークィーこっちだこっち! 俺が君を乗りこなしてやる!」
「向こうだ茶色」
灼熱のマイケルが身を低くしてアゴをしゃくると、果実のマイケルと虚空のマイケルは大げさな身振りで遠ざかりながら獣に手を振った。マークィーはどちらにも気づいていたけれど、動きの目立つスーツ姿の子ネコを視界にとらえたようだ。
「真っ先に囮になるヤツがあるか、お前がやられたらインゴットは誰が持つ、自覚しろ」
顔を寄せると灼熱のマイケルが小声で怒鳴る。言葉もなかった。
「果実と虚空がひきつけとるうちだ、早く森の奥へ逃げ――」
『全員でかたまって突っ込むふりをしろ』
え?
聞き覚えのない若々しい声に2匹は動きを止めた。
『さっさと動くんだ』
やたらと強い口調。声も大きい。
『死角をとるように動け。警戒させろ』
すると斑点のある細い前足が、茶色いマイケルの肩からすっとマークィーに向けて伸ばされた。
声が聞こえていたのだろう、バラバラの場所にいた子ネコたちはそれぞれの場所から同じタイミングで足を前に踏み出した。アイコンタクトもなしに1歩2歩3歩をためらわない。すると突撃態勢のマークィーが怯んで止まる。あごを引いて身体を起こし、子ネコたちを順繰りに見ていった。
『あとは木の裏に隠れながら距離を取ればいい。見つかったら別の木の裏へいく。あいつが見失うまで繰り返すんだ』
***
指示は的確だった。
マークィーは子ネコたちを見失い、顔をキョロキョロさせながら森の深いところへと行ってしまった。木の裏には2回隠れただけだった。しかもあまり動かずに済んだから、神ネコさまたちともすぐに合流することができたんだ。
『『黒い靄』に身を浸せ。においが気になるだろうが効果的はある。神たちも同じようにするといい』
オセロットの神ネコさまは茶色いマイケルの背中からするりと降りて足音をたてずに地面に立った。小柄でスラリとした身体はどこか儚げだ。
『おいオメーなにもんだー? オメーのことなんて見たことねーけど最近生まれた神だろ? なんでそんなに詳しーんだよー』
『ダラダラと話している暇があるのか風の神。この湿り具合、ヤツらはまだまだいるぞ』
なにおう、と飛び出しそうな風ネコさまをなだめ、言われたとおりに『黒い靄』をたっぷりと身体に浴びた。
森の中を進めば進むほど、マークィーの気配は増えていった。オセロットが言うには、
『森の中心に行くほど多くなる。少ないのは入口付近と出口付近のみだ』
つまり都合のいい抜け道はないということだ。
オセロットはその後も、茶色いマイケルの耳や虚空のマイケルの目をうまく活用しながら、マークィーの“網”をかいくぐり続けた。神ネコさまたちも黙って従っていた。
いつしか森の中心を抜けていたのだろう。
マークィーの気配がまばらになって、茶色いマイケルの耳の出番も明らかに減ってきた。本当はもっとマークィーを観察していたかった。どうにか仲良くなって背中に乗れないものだろうかと、そんなことを性懲りもなく考えていたんだ。だけどそうも言ってられないからね、猫背にならざるをえない。そんな時だ、ふいに耳の中へと声が舞い込んできたよ。
『本当にやるのか』
『仕方ねぇでしょ、やれって言われたんだから』
『だが大空さんは』
『分かってますって。ですがねぇ、どうせこいつら死んだようなもんなんだ。いつまでも夢を見させておくのも可哀想だろ。ここはひとつネコ助けすると思って俺たちが……』
大樹の裏に身をかくし、息を潜めて声のするほうを覗いてみればそこには2匹の神ネコさまと、
あれは……マルティンさん?
潰れたシルクハットを傍らに置いて、くたびれたタキシードを羽織ったサバトラネコが、木の根元に背中を預けてぐったりしていた。
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