(142)11-11:恩赦の光

***

 聖秤フェリスががしゃりと揺れた。

 左の皿で寝ていた白猫が頭をもたげて起き上がり、すっと背を伸ばす。茶色の頭を丸呑みできそうな大きなあくびをひとつして、右の皿に目をやった。

 そこでは小さな猫が2匹、互いのしっぽを追いかけ回していたよ。イラだつ顔には狂気が浮かび、その動きにも相手への殺意が見てとれた。ただ、ガシャンとさらに大きな音をたてて白猫が右皿にしがみつくと、2匹はその金色の身体を震わせて、歯向かうことなく小さなおしりを向けたんだ。

 白猫はおしりのにおいを嗅いでいた。すんすんと鼻が動くと、ティベール・インゴッドの猫たちは恥ずかしそうに顔をおおった。

 オアァァァァア!!

 左の皿にもどった白猫は、空に向かって叫びをあげた。声はまっすぐ上にのびていき、雲のないのっぺりとした鈍空へと突き刺さる。そこで声をかけられた。

「茶色!」

 目元を拭って振り返ると、階段際に息を切らした仲間ネコたちの姿があった。しかめ面の灼熱はわざとらしく大きなため息をついてみせる。

「まったくお前は。おかげで豚ネコを運ぶ羽目になったわ」

 左手には果実が吊られていて、ゼエゼエと音を立てながら、丸い身体を伸縮させていた。

「よかったのか?」

 大きく肩で息をしながら、問いかけたのは虚空だ。茶色は首をふって、「ありがとう」とだけ言った。

「あれぇ? なんにも起きないんじゃなぁい?」

 ポイッと落とされた果実は、おしりでワンバウンドしてから辺りを見渡した。

 たしかに変化がない。秤の上では3匹の猫たちが、うずくまってスヤスヤと寝息をたてている。相変わらず左の皿は下がったままだし、このまま何も起きなかったらどうしようと茶色のしっぽはそわそわと揺れていた。

 返事をしたのは空だった。

 空の真ん中、こぼしたインクが繊維を伝って広がるように、藍色が子ネコたちの頭上を塗り替えていく。散りばめられた星々が満天へと広がっていくと、夜空は広場以上に賑わった。そこに、

『オーロラさまだ!』

 階段下の神ネコさまたちの中から声が飛び出した。

 星空に光の筋がはしり、頭上が2つに分かたれる。筋から垂れこめた光が鮮やかな緑色のカーテンとなり、瞬く星々と遊ぶようにそよそよと揺れていた。

「オーロラネコさま……」

 クラウン・マッターホルンで見たように、光は形を変えていく。さわり心地の良さそうなその光が、猫の姿になったらまず何を言うのだろう。何を話そうか。茶色は見上げて考えていた。けれどその幻想的な光景をまったく無視するように、星の芯が、灼熱されたガラスみたいな光を放ちはじめたんだ。

『構えなさい』

 地核ネコさまのずっしりと重たい声がした。

 輝きを増した星の芯は、コォォォという音を空に放ち、オレンジ色の光柱をうちたてた。その直後だ。広場に灼けた鉄の雨がザァッと降りそそぐ。ただ、熱くもないし感触もなかった。

『あ……あああ』

 広場を見おろすと、つめかけた神ネコさまたちの中に、低く唸ってうずくまる姿がちらほら見られた。光をうけて、のたうちながら苦しんでいたんだ。

『心配はいらない。記憶が戻っていくだけだから』

 優しい声は茶色たちに向けられたものだろう。

 だけど、記憶が戻るということは、後悔も一緒になってついてくるはず。だとすれば表の世界と同じように気をおかしくしてしまうかもしれない。それは酷いことじゃないだろうか。

 その答えとばかりに地核ネコさまは言う。

『ありのままを受け入れなさい』

 容赦のない声だった。

『神としての役割を逸脱し、あまつさえ与えられた“意識”をないがしろにする行為に関わったこと、そのせいで多くの神を巻き込んだこと。求められた罰の重さを噛みしめなさい。お前さんたちの本当の罰はここから始まるのだよ』

 だが、と和らいだ。

『これは恩赦の光。お前さんたちを許すために与えられた光だ。これからしばらくは心を焼くほどの後悔に苛まれることだろう。もしかすると長く長く苦しむかもしれない。だが希望はある。いいや無くてはならない。必死になって見つけなさい。けっして己を見失ってはいけないよ。これからも世界は続いていくのだから』

 すると誰かが叫んだ。咆哮というにはあまりによわよわしい鳴き声は、ひとつまたひとつと重なって、連なって、やがて大きな泣き声になる。悲しいのか嬉しいのかは分からないけれど、チカッと光ったクロヒョウたちが、器の中に蒸気や林や小川を浮かべているのを見て、茶色は胸を押さえたよ。

 変わっていく。元に戻っていくんだ。

 焦りや恐れとは違う高鳴りを感じた。鼻から息を吸えば自然と胸もはる。

 地核ネコさまのすぐ傍に、ひときわ大きな輝きが現れた。あれは大空ネコさまたちだろうか、光を囲んで何かを待ちわびているようだ。

 白い群のみんなは元の姿に戻っていて、コドコドたちは喜びを体現するように跳ね回っていた。

 階段の下からは、ハチミツさんとコハクさんが嬉しそうに手をふりながら、ものすごい勢いで駆け上がってくる。その足音が心臓のリズムをトクトクと早めていた。

 新年を待ちわびるような、いいやそれよりもずっとずっと大きな期待が湧いてくる。朝日に照らされたまっさらな雪原を見ているようだった。壊れた世界の再生と、新しい世界の創造とを待ち望む、活気に湧いて踊りだしそうな、この星の芯広場の名前は、クライズ・スクエアというらしい。

 そして、クライズ・スクエアが凍りついた。

 傷だらけになりながら駆け抜けたキッツ・コティ・ローグが。

 夢のようにふわふわした心地でくぐった銀色のアーチが。

 涼しげに光を放っていた広場の足元が。

 その上で喜ぶ神さまたちが。

 巨大なネコの祭壇が、長い階段が、星の芯が、空までも――音も動きも含めたあらゆるものが一瞬にして凍りつき、あわあわの世界は、冷たく澄んだ氷の世界になってしまった。

『あら、あなたたちは凍っていないわよ』

 声は上からだった。驚きで息を詰めていた子ネコたちの真上から、白のユキヒョウが宙を降りてくる。一歩踏みしめるたびに足元には氷華が咲いて、冷たい音をたてて儚く散っていた。

 広場の光景には目もくれず、祭壇の前に足をつく。

『大地の神が復活する前に行きましょう』

 凍えるほどキレイな声だった。

『あの子たちも見苦しい姿は見せたくないでしょうから』

 返事を待つ気はないらしく、舞うように向き直ると、『フェリス、ティベール。ごくろうさま』と言って秤を雪にした。いつのまにか水平になっていた左右の皿の上、3匹の神ネコがちょこんとお辞儀をしたよ。ふぁっと粉になり、雪は撫でるように落ちていった。

 白のユキヒョウは、しっぽを揺らして氷の扉を創りだした。奥へと歩みを進める動きは流れるようで、目ばかりが追いかけてしまう。すると身動きできないでいる茶色たちをどう思ったのか、女神さまは途中で立ち止まり、小さな声で言った。

『お別れは、ネコたちだけでいいでしょう』

 その言葉の意味が分かったのは、うしろから灼熱の笑い声が聞こえてきた時だった。

「最後に見る姿がそれとはな」

 階段下を見る背中は、いつもより居丈高に反っていた。灼熱は氷漬けになったサビネコ兄弟に向かって、

「道すがら、足跡をたどってやらんでもない」

 と小声でつぶやくと、サッと振り返り、すぐ後ろにいた果実の肩を叩いて場所をゆずった。果実の別れもあっさりとしたものだ。

「オイラも、いっぱい世界を巡るから」

 短い言葉の中には、どんな想いが詰まっていたんだろう。すれ違いざまに見た2匹の顔は成ネコみたいに落ち着いていた。

 次は茶色の番らしい。女神さまにしっぽでつっつかれ、よろけながら階段際まで行って、サビネコ兄弟にありがとうとさようならを言う。ちらりと視線を向けると、はしゃぐ姿を氷漬けにされたコドコドたちが目に入った。

「話したかったな」

 返事を期待していたわけじゃない。だけど隣に並んだ虚空が応えた。

「神はどこにでもいる。見てきた通りだよ」

 腕を組み、遠くを見て笑う横顔は、やっぱりどこか成ネコっぽくて、茶色も負けじと顔を引き締めたんだ。

「そうだね」

 氷の扉が世界を隔てる直前に、もう1度だけ振り返った茶色いマイケルは、ありったけの想いを込めた一言を、この世界に向けて囁いた。

***

 氷の扉の先には、いくつかのイタズラが待っていた。

「あれっ、マークィー!?」

 それは、茶色たちを助け、ともに戦い、駆けぬけた、ずんぐり獣であり、

「ここってぇ、あのときの」

 あわあわの世界に来る前に連れてこられた、時の女神さまの部屋でもあり、

 そして。

『やぁみんな。はじめまして久しぶり。そしておめでとう、茶色いマイケル』

 暗がりの奥から明るく声をかけ、いかにも親しげに手をあげながら歩いてきた、ボク自身。

 いらっしゃい。ここは時別れの書斎だ。

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