(130)10-5:傷だらけのお父さんネコ

***

『あまぁい。世界は大きな流れの中にあるんだよ。凡ネコ1匹あがいたところで何も変えられやしない。分かろうが分かるまいがおんなじ事、痛みに際限はないのさ。だったら苦しむだけ損だろう』

 一瞬、声が下を向く。

『叶わない願いは痛みしか生まないよ。坊やももう忘れちまいな、さあ、あたしが楽にしてあげよう!』

「いやだ!」

『聞き分けな!』

 クルマは急カーブにさしかかり、くるりと回って真正面からこっちに向かって来る。ものすごい勢いだ。ケマールさんに首根っこを噛まれてぶら下げられた茶色いマイケルは、とっても情けない格好ではあったけど、まっすぐにキャティを見据えて、あらん限りの声を飛ばしたよ。

「ボクは! 帰って、お母さんネコを笑わせる!!」

 目をつむったキャティは、やれやれと頭を振って、

『流石にもう、母乳は出せないねえ』

 ヒヒヒヒヒヒヒ。

 バチッ、と目を見開いてギシギシと嗤った。舌なめずりの音がした。

 茶色ぉ、と子ネコを呼ぶ声がした。

『おや、来たのかい。おい! お客さんだよ。呆けてないで仕事しな』

 トムとチムは慌てて返事をすると、追ってきていた灼熱たちを狙い撃つ。頭のうしろで爆撃音が響き渡った。

『さあ、おいでぇ』

 顔が、どんどん大きくなる。

「ケマールさん!」

 肉の裂ける痛みを我慢して、思い切って振り返る。そこには血の涙を流すネコがいた。

『ヒッヒヒヒヒヒヒヒ』

 高らかに吠えたアクセルに、後ろからすり潰されるところを想像した。音は囲いを狭めるように、厚く厚く迫ってくる。芯に力を込めるけれど当然ここでは飛べはしない。身体さえ自由になれば逃げられるはずなんだ。なのに、心がもう無理だと両手をあげていた。

『ヒーッヒヒヒヒヒ』

 チェーンソーのような嗤い声にヒゲが毟られる。振り向かされた先には、牙を並べて狂喜するキャティの顔が。死とは別の恐ろしさに震え上がったよ。捕まればいったい何をされるのか。クルマのヘッドライトが上向いて、お前はここで終わりだと告げていた。

 だめだ、間に合わない。

「ケマールさん!」

 逃げて、と言って目をつむった瞬間だった。

 たたき込まれた強い衝撃に、胃液がこみ上げて歯を食いしばる。だけど。脇腹のかわりに首から熱がなくなった。息づかいが消えたと思ったら、茶色は宙に放り出されていた。

 くぉおおおおおおおお!!

 凄まじい雄叫びに目をやるとケマールさんがクルマに飛びかかるところだった。

『け、蹴散らしなっ!』

 トムとチムの反応が遅い。

『とっととやれっ!』

 見えない砲撃がケマールさんに真正面から食らいつく。スプリンクラーから水を撒くように赤い飛沫が広がった。そこに、

「「「ちゃいろおおおおお!!」」」

 並行してはしる道の陰から仲間ネコたちが現れて、思いっきり手を伸ばしてくれた。とっさに伸ばした手は固くつかまれた。ありがとうはまだ言わない。振り返りざまに茶色は叫んだ。

「ダメだよ、ここで終わらせちゃ!」

 その背中がリーディアさんと重なったんだ。

「先に行けばあなたの願いはまだ叶う! だったら特別賞! きっとエイファさんたちだって――」

『だが、簡単に乗り越えられてしまうのだろう?』

 驚いたのは声の位置。耳元だった。茶色は目を大きく開いて息を止める。

『傷なしでは学べんらしい。俺というやつは』

 深く、息を吸い込む音がした。それは、込み上げてくるものを抑え込む吸気の音。そして、見えないどこかと繋がるような、深い深い吸気の音。

『ああその通りだ、受け入れよう。俺は、我が子ネコと妻ネコを、愛してやまない、チュルクとエイファを……この手で――』

 すると、爆撃に飲まれて落ちていく身体を砂がふぁっと包みこみ、獣が形作られていく。長くて太い立派なしっぽ。4つの足の先は厚い。空を見上げた砂の獣は、まるでそこに足場があるかのように大気を踏んで蹴り上がった。一気だ。十数メートルを一歩でのぼり、勢いをそのまま車の腹にぶちこんだ。

 車は意思を持ったように飛び上がり、半身を出していたトムとチムが叫び声とともに投げ出された。弓なりに歪んだ車体は1秒後、目を刺す閃光を放って爆発し、炎を噴き出しながら落ちていく。

 あれこれを叫ぶ時間はなかったんだ。いくつもの出来事がいっぺんに起きたから、かたわらで放物線を描く黒い煙をただ口を開けて見ていた。

 ハッとしたのはだいぶ時が経ってからのような気もするよ。それにしては車は宙に留まったままだったから、一瞬の後のことのかもしれない。ともかく炎に飲まれた車体に向かって、無事かどうかを確かめようとしたんだ。すると再び爆発がおこり、爆風に乗って、凄まじい速さでネコ影が飛び出してきた。

「まぁぁちなあああ」

 長くて白い毛は焦げていた。ちぢれた毛がただれた皮膚にへばりつき、顔半分が溶けている。キャティは、片手でぶらさがったままの茶色いマイケルを見つけるとその足に爪と牙とをつき立てて強引にしがみついた。鋭く肉が裂けていく。

 ゴキッ、と肩が外れる音がした。あまりの痛みに呻くだけで精一杯だった。灼熱たちが何か叫んでいるけれど、もう言葉の意味さえ分からない。

『その手を離すなよ』

 声は灼熱たちへ向けてだろうか。どこからともなく現れた砂の獣は、立ちのぼる黒煙を背にして、その長くて太いしっぽでキャティの首を締めた。そして茶色から頭を引き剥がすとすかさず、その口に白骨のボーガンを突っ込んだ。

 ンンンッ!

 ぐりんと首を回したキャティ。透明な矢は喉を貫く代わりに、彼女の頬の肉をそこらにぶちまけた。

「ゲマールぅ、あんだぁ祖国に逆らうのがいぃい」

 声はそれでも喜色をはらむ。

『すまんな法官殿、再教育は間に合っている』

 獣をとりまく砂の嵐が輝いた。光がみなぎり、傷も膿もない。

『失うのは、もう十分だ』

 喉元に食らいついた獣は、必死のネコを茶色いマイケルから完全に引き剥がす。キャティの爪が茶色の腿から足先までを長々と切り裂いた。そして、落ちていく。

「「キャティィィィィ↑!!」」

 道にしがみついていたトムとチムの横をストンと過ぎる。その下に道はもうなかった。事の終わりを悟ったのか、彼女は抵抗をやめていた。

「……ああそうかい。いいさ」

 キャティはまっすぐにボクを見て嗤う。

「覚えておきな坊や。真実には悪意が潜むんだ。だからあたしはどこにでもいるし何度でも蘇る。泥はねぇ、より美しい方へと流れていくのさ……いずれあんたたちにも――」

 何もない、恐ろしいまでの白色の中に2匹の姿は溶けていった。子ネコたちは彼らの姿が見えなくなるまで、口を開くことができなかった。

 足に残った爪痕が、ずくずくと疼いていたよ。

***

「ボロボロになったな」

 虚空に手をひかれ、マークィーの背中へと引き上げられた茶色が、なぜか泣いていた果実の肩を、ポンと叩いた時だった。

「出るぞ」

 一番前に移動していた灼熱が、どこか清々しい声で3匹に呼びかける。

 星の芯へと続く最後の一本道。左へ左へと描かれたゆるやかな曲線の両脇には、子ネコたちの最後の走りを見届けようと、数え切れないほどの神ネコさまたちが宙を埋めていた。

 ふと、声が聞こえた。

 ――見えるか、お前たち。

 それは自分たちに掛けられた声かと思ったけれど、

 ――美しい色だな。

 茶色いマイケルは微笑んだ。

 ――そうか。

 傷だらけのお父さんネコは、とっても優しい声で、家族ネコに心からの言葉を不器用に伝えていた。

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