(127)あわあわの幕間3:輝く白毛の民 ケマール③ 砂漠の獣

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 毎日が穏やかに繰り返される。

 気の利く息子ネコのいなくなった生活は、様々な不便と共にそこにあったはずのものを思い起こさせ、物悲しい気持ちにさせる。砂漠の風のようだ。乾き、そして砂を生む。

 とはいえそんな砂漠でも生きていく術を見つけてきたのがネコたちである。ケマールの妻ネコであるエイファもまた、日々を受け入れ、増えた仕事に手間取りながらも、その慌ただしさで気を紛らせているらしかった。

「じゃあ行ってくる。エイファ、何か食べたいものはないか? 久しぶりに大物でも狩ってこようと思うのだが」

 ケマールは狩り場を頭に浮かべながら、それと同時に妻の喜ぶ顔をいくつも描いた。

「ケマールさんにお任せします。ぜひ食べたいものを狩って来てください。私の仕事はそこから先ですから」

 にっこりと微笑むエイファ。支度を終えて立ち上がり、失った左足のかわりに杖をつきつつケマールのいる玄関へと歩み寄ってくる。夫ネコは入り口の垂れ幕を開けてやりながら、

「今日も行くのか」

 と、挨拶程度に気持ちをのせてそっと声をかけた。

「はい。あの子ネコの顔を見ていると元気が湧いてくるんです。他の白ネコたちと比べて年若いというのにあんなに堂々と……」

 エイファは詰まりかけた声を咳でごまかし、

「あなたの話もしてきますから」

 と笑って言って宮殿へと、ゆっくりと歩いていった。

 チュルクがパンガー・タッシデルミアとして奉納されて以来、ほとんど毎日のことである。体調を崩しがちだった頃はどうなることかと思ったケマールだが、息子ネコは死してなお、母ネコを思いやり、支えているらしかった。

 その事を思うと、あの時に悔しさを感じた事実が胸を締め付ける。

 チュルクは立派に務めを果たしているではないか。それを褒めてやらずして何が父親ネコか。価値教育が足りなかったのは、そもそも奉納が早かったせいなのだ、あの子ネコは早熟で達観したところがあったが、それでもまだ若かった。それを含めて見てやれなかった俺の落ち度だ。

 どうかこれからもお母さんネコを支えてあげてくれ、チュルク。そう心から願うケマール。しかし、残念ながら全身剥製となった息子ネコに、母ネコの心の支えとなる以上の力はなかったらしい。

 タプファラハトである。

 いくら王子ネコ直々の褒美だからとはいえ、元来立ち入りの厳しく制限された宮殿なのだ。こうも毎日通っていると見るものが見れば『不敬』と解釈してしまう。いや、できてしまう。

「ああも続けて出入りされると、反帝国を掲げるネコに利用されかねんな。誘拐されて秘密を漏らされたとなれば一大事。民ネコの導き手である偉大なる祖国のために何か手をうたんと……」

 タプファラハトは自室の机に肘をつき、手を顔の前で組んで祈るように目を閉じた。あたかもそれが全帝国民ネコの願いであるかのように。

 そして、鋭く目を見開く。

「――そうか、褒美だ。褒美をまだやっておらんかったな」

 窓から斜めに照りつける太陽が、机に落ちる影をひどく歪な形にしていた。

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「今日は砂が多いな」

 ケマールはタプファラハトの自宅に呼び出されていた。法官ネコというものに清貧が求められることはないのだが、この家には派手な装飾品はない。ケマールの家と大して変わらない、生活に必要なもので構成されている。

 ただひとつを除いて。

 目を引くのはそのタプファラハト自身の座っているイスで、一見、動物の皮と骨とで組んだだけの簡素なものなのだが、とっぷりと肥えたネコの巨体を悠々と支えるしなやかさと、形を崩しても無理を感じさせない構造的な美しさがあった。

 なにより色だ。

 ひと目でそれがパンガーのものであるというのがわかるように、部屋の灯りは極端にしぼられている。

 再教育されていた頃、この部屋には何度も来ているがパンガー製のイスなど見るのは初めてだった。しかも、これほどパンガーを贅沢に使っているとなると、思い当たるのは一つしかない。王子ネコに望んだのだろう。

 それにしても……と唾を飲む。

 同族の骨だというのに嫌悪感がないのは昔からだが、それどころか美しささえ感じていることに、ケマールは驚きを感じていた。

「はい。聞いたところによると砂漠の広がりが北側の森にまで及んでいるとか。風をうけて樹木の根がさらされ、森がなくなっていくというのは、なんとも不思議な光景でした」

「ほう、それは私も見てみたいものだ。今度そこに案内してくれ」

 畏まりましたと頭を下げるとタプファラハトが「それはいいとして」と話を変える。今日ケマールが呼ばれた理由を話すのだろう。何故かその時、悪寒が背筋を走った。

「お前の息子ネコ、なんと言ったかな」

「はっ、チュルクのことでしょうか」

「そうそう、チュルクだ。私はアレのおかげで随分良いものを頂き、毎日をそれまでの何倍も有意義に過ごせておる」

 言いながらトン、トン、と仄かに微光を放つイスの手すり部分を手で叩いて見せた。触り心地を確かめるように撫でさする。そして微かにマズルを持ち上げ、

「そこでお前にも褒美をやろうと思ってな」

 と優しく笑った。その笑みは再教育で何度も見たことのあるもので、ケマールは条件反射的にしっぽを振ってしまうのだ。しかし、

「し、しかし私たち夫婦ネコはすでに」

 宮殿への出入りという形で褒美をもらっているからと、欲を堪える。

「私が見ておらんと思ったのか。あの権利を享受しておるのはお前の妻ネコだけであろう。私はそれが心苦しくてな。故にだ、私的に褒美をやる事にした」

 またトン、トン、と滑らかに磨かれた骨の手すりを叩いてみせる。ケマールの瞳の奥が大きく揺れる。

「お前も、なかなかの目利きになったようだな」

 ハッとしたケマールは「申し訳ありません」と深く頭を下げて謝罪した。

「そう畏まるな、ケマール。私とお前とは立場こそ違えど共にここのネコたちをまとめてきたもの同士だ。教育を施したものとして、それこそ我が子ネコのように思っておる。だからこそ、お前の本当に欲しいものを与えてやれるというものだ」

「私の……本当に、欲しいもの……」

 そうだ、と鷹揚にうなづく法官ネコはすっくと立ち上がり、

「ここに座ってみなさい」

 とケマールをその、闇を照らす灯りのような美しいイスへと座らせ、背中側からそっと、

「おお、おお。お前にもわかるか、この価値が」

 と囁やいた。

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 家に帰った夫ネコを一目見てエイファは顔つきを変えた。話を聞き、玄関に立ったままのケマールに向かい、両手をついて頭を下げる。

「どうぞよろしくお願い致します」

 それはケマールの笑顔をさらに強張らせるものだった。抵抗してくれればもっと自然に笑って説得できたかもしれない。泣いてくれれば他に何か方法はと頭を働かせるくらいはしたかもしれない。罵ってくれれば何か昔のことを、あのころ感じていたように思い出せたかもしれない。

 しかしエイファは、

「たとえ姿形が変わろうとも、あなたがそう見てくれている限り、私は私でいられます。それはチュルクが教えてくれたこと」

 と微笑んだ。

「私は一足先にチュルクの元へと参ります。ですが、あなたの元にも私が残るというのなら、私はあなたたち2匹とまた一緒にいられるということ。そう考えると、3匹で穏やかに暮らしたいという、もう二度と叶わないと思っていた願いが叶ったと、そう考えてしまっていいですよね。少し思っていたのと違う形ですけれど、これもまた幸いの形なのでしょう。ケマールさん」

 愛しています。

 と、エイファは心からの笑顔を見せた。

 その、この世の何よりも美しいと思った笑顔を懐(いだ)きながら、ケマールは、奉納の儀を滞りなく終わらせた。

 タプファラハトに言われたとおり、全て、自分1匹だけで片付けて、骨の一本一本まで丁寧に、そして滑らかに磨き上げたのだ。

『パンガーというのはな、心から望んでそうなることでより輝きを増すと言われておる。お前たち夫婦ネコの信頼は強い。きっとこのイスなど比べ物にならないほどのパンガーが得られるだろう。それをお前への褒美とする。どうだ、嬉しいか?』

 その言葉のとおり、仕上がったエイファのパンガーは素晴らしいもので、ケマールの愛情を込めた研磨も相まって、強い日差しの中でもそれだとわかりそうなほど輝いていた。

 タプファラハトは舌なめずりをする。

「よし、お前にはこれとこれと……それとこれだな」

 結局、ケマールの手元に残ったのは細い骨とわずかな皮、あとはヒゲくらいのものだった。

 その他のエイファのパンガーがどうなったのかは分からない。あれ程の一品を奉納していればまた宮殿に呼び出されたとしてもおかしくはないので、タプファラハトの家が少しだけ豪華になっているのかもしれない。

 そんなこと、ケマールにはどうでも良いことだ。

 彼は受け取ったエイファのパンガーを、タプファラハトがそうしていたように、いつも触れていられるような形にしたいと思い、ヒゲや毛を紡ぎ、骨を組み上げ形にしていった。

 完成したそれを恍惚の表情で眺めながら、ケマールは静かすぎる家の中でこう思うのだ。

 これが価値なのか、と。

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