平和な生活をしていると、ついつい忘れてしまうことがあります。
どこもかしこも安全で、居心地のよい場所ばかりではないのです。
家から一歩出るだけでそこは、猫にとっては危険な領域であることを、ぬこじゃむはすっかり忘れていました。
いいえ、安全に見える囲いの中にこそ危険はあるのかもしれません。
プロローグ『呼び出しには気をつけよう』
すごく暖かい日のことです。
あるとてもシンプルな部屋に、ベチャッと佇むぬこじゃむの姿がありました。

甘ったるい香りが一面に漂っています。
マーマレードをさらに煮詰めて甘やかした匂いです。
ぬこじゃむはソワソワしながらあたりをうかがい、

あのぅ、よばれたから来たんだけどぉ……
と不安げな声で呼びかけました。
けれど答える声はありません。


えっとぉ……
か、かえってもいいよねぇ……?
キョロキョロと、誰もいない場所に向けて言います。
許可をとる必要なんてないにもかかわらず。
しかも、

か、かえりますねぇ……
いいですかぁ……
いいですよねぇ……?
敬語まで使い始めました。
なんて情けないのでしょう。
すると、そんな姿をみたからか、
***
おまえ、スパイになりなさい
***
どこからともなく声が聞こえてくるではありませんか。

………………………え!?
声の方向ははっきりしませんが、ぬこじゃむはとりあえず上の方を見ました。
ねこの習性がまだ残っていたようです。
じわじわと言葉の意味が頭に染みこんできて、より一層混乱してきたころ――
***
おまえ、スパイになりなさい
***
声はまた別の方向から聞こえてきました。
さっきよりも大きな声です。
イライラしているのが丸わかりなので、気弱なぬこじゃむは焦ります。

な、な、な
その場でプルプル震えるぬこじゃむ。
なんと答えればいいのでしょうか。
なにせ意味がわかりません。
ただ、意味はわかりませんが、ぬこじゃむの中にわずかに残っていた野生の勘が告げます。
さっさとにげたほうが――
***
おまえ
スパイに
なりなさい
***

こうして、ぬこじゃむはスパイになるための訓練をさせられることとなりました。

勘を働かせましょう
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