3-19:甘い夢

メロウ・ハートの廃都市と果実のマイケル メロウ・ハートの廃都市と果実のマイケル

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 メロウ・ハートの『甘い夢』

 それが歴代最高の女優ネコの呼び名でした。この方はサビネコではありません。クリーム色の柔毛に、鼻の先からそっと薄墨を染みこませたようなポインテッドの美しい顔。淡いブルーの瞳による蠱惑的な流し目は、訪れる王侯貴族ネコたちを虜にしました。

 一方、お相手の俳優ネコもまた強烈なルックスと抜群の演技力で、観客ネコたちを魅了します。

 『黒錆び』

 黒地に赤と茶の毛がほとばしる黒サビ模様、神秘的なアンバーゴールドの瞳。どんな悪ネコも震えあがるほど鋭く睨みをきかせたかと思えば、次の瞬間には少年ネコのような純朴な笑みを見せたりと、観客ネコの心を振り回してやみません。

 2匹は苛烈な役者生活の中で切磋琢磨し、時に発破をかけ、時に気遣いながら、メロウ・ハートのトップの座を勝ち取り続けました。

 ふふ、観客ネコたちの心の内は複雑だったでしょう。

 どのネコから見てもお似合いの2匹だったのです。にもかかわらず交際を始める気配はない。結ばれて欲しいという気持ちが大きいくせに、今のままでいてくれという願いも捨てきれないという。下世話なようでいて尊い感情。それは当時を語れるネコにしか感じられなかった心の葛藤です。

 その葛藤にもやがて終止符が打たれます。

 結婚は万雷の拍手をもって祝福され、2匹の間に生まれた子ネコもまた、華やかな道が約束されていると、誰もがそう感じていたに違いありません。もっともご両親ネコは、生まれたばかりの子ネコが大きすぎる期待に潰されはしないだろうかと、気を揉む日々だったようですが。

 しかし、暗雲はすぐそこまで来ておりました。

 そう、大地の神の不在です。

 大地の神のご加護は、大地に根差す全てのものに栄養を与えるというもの。影響は甚大です。草木がやせ細り、実りが減ると、森の動物たちの食べ物が減ります。そうなると今までは食べていなかった木の根や種までが重要な食料となり、本格的に森の成長が止まり、衰退がはじまります。

 ネコたちも農作物が育たず困ってしまいました。かわりに狩猟を解禁したはいいものの、すでに森から動物たちは姿を消しているのですから成果は期待できません。

 こうして世界は急速に、網目からこぼれ落ちる水のように豊かさを失っていき、その不安はネコたちの心に渇きをもたらしたのです。

 メロウ・ハートも最初は小競り合いからでした。わずかな食料をめぐって言い争う声があちこちから聞こえ、そういった声がいくつかの群れにまとまり始めると暴力が幅をきかせます。それでもまだ理性的だったと言っていいでしょう。芸術都市に不似合いな、武器がネコたちの手に取られることはまだなかったのですから。

 芸術家ネコたちはこれまでに得た伝手を頼り、街を離れていきました。世界各地にはまだいくつかの豊かさを保った国や街が残っていたからですね。ええ、スノウ・ハットもそのうちの一つですよ。

 しかし一方で、そんな時だからこそ心の豊かさを求める動きもありました。

 円形野外劇場は連日の満員。そう、隔日で行われていた演劇が毎日行われるようになったのです。提案したのは『甘い夢』でした。それが皮肉な結末に終わることなどまだ知らない彼女は、「豊かさを取り戻しましょう」と訴え続け、笑顔で役を演じ続けたのです。

 『黒錆び』も彼女の願望を支え続けました。演者ネコたちに届いた各国のファンネコからの支援を、演者ネコ客ネコ関係なく分け合い、時にはケンカの仲裁に入り、暴徒ネコたちを諫め、なんとかメロウ・ハートをまとめようと試みたのです。

 一発の弾丸が『甘い夢』を撃ち抜くまでは。

 いいえ、幸い彼女の命に別状はありませんでした。撃たれた傷も浅く、痕も目立たなくなるだろうという医者ネコの見立て。

 けれど、失ってしまったものは大きかった。弾丸は観客席からだったのです。

 幼いころから通い続けた舞台。時には満天の星空の下、そこで眠ることもあったというのですから、我が家のようなものだったのでしょうね。

 彼女は声を失いました。舞台に立つと震えてしまうという後遺症を残して。

 『黒錆び』は決心し、手を回し、メロウ・ハートを終わらせる覚悟を決めました。彼女の理想を、文字通り甘い夢に終わらせる覚悟を。

 難民の受け入れをしていたスノウ・ハットに彼女を送る際にはひどく泣かれました。激しく拒まれました。泣きつかれて眠ったところを無理やり運ばなければならないほどに。心を鬼ネコにしなければできなかった。その後のことも。

 メロウ・ハートを壊滅させたのは『黒錆び』でした。

 賛同者たちと協力して、世界中から集まった芸術家ネコたちの作品を、建物ごと重機で破壊して回ったのです。爆薬も使いました。木っ端みじんに吹き飛ばしました。

 どうしてそんなことを、ですか……。

 彼は最後まで、彼女の『甘い夢』を叶えたかったのですよ。武器を取り争いを激化させる暴徒と化したネコたちに、豊かさはこんなところにあったのだと気づかせたかったのです。逆説的かもしれませんが、実に彼らしい。

 その行動に振り回され、正気を取り戻した暴徒ネコたちは武器を捨てました。ですが奪い合う物の無くなった都市に残ったのは瓦礫と、虚しさと……。

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 カラバさんはゆっくりと目をつむったよ。「昔話はここまで」っていうみたいにね。

 ピッケはうつむいたままだった。茶色いマイケルの隣で、ギュッと肉球を握り込み、ちょっぴり震えている。

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