2-18:名前

ホロウ・フクロウの大森林と灼熱のマイケル ホロウ・フクロウの大森林と灼熱のマイケル

***

「ワシの……負けだ」

 切れぎれの声は、さっきまでと違って芯のない、高いだけの声だった。

 2匹はしばらくのあいだ、ぜぇぜぇと息を荒く、仰向けで寝転がっていた。冬枯れした木々は細く、うす空に走ったひび割れみたいで、ボロボロの自分たちと重なって見えた。

 冷たい空気が頭の中を通り抜けていく。

「……ワシが間違っていた。修業を積んだワシが負けたということはつまり、お前はワシ以上の経験を積んでいたということだ。そう育て上げたお前のご母堂は立派だな。無礼な発言をすべて撤回し、謝罪させてくれ」

 本当に申し訳ないと言ったその姿を、茶色いマイケルは見ていない。だけど想像はできた。声だけで十分に。

「他にもヒドイことを言ってしまったな。すべて訂正しよう。まず、お前の」

「いいんだ」

 謝罪をさえぎったあと、もう一度「いいんだ」と繰り返す茶色いマイケル。燃える炎の子ネコがこっちを見た音がしたけど、茶色いマイケルは上を見続けていた。

「ボク、こんな風にケンカしたことってなかったかも。いっぱい遊んで、いっぱい走り回って、いっぱい汗をかいたことはあったけど、フフッ、こんな、ボロボロのどろどろになんて……ふふふっ」

「……そんなに愉快か?」

「ゆかい? 愉快……そうだな、愉快だね。ははは」

「妙なネコだ」

「はは、キミほどじゃないよ。ボクはキミみたいに、一匹で旅に出たこともなければ、色々なことを勉強したわけでもない。難しい本に挑戦しようと思ったこともなかったし、生きていく道に壁があるだなんて、考えたことすらなかった。……キミの言った通りなんだ。だからそこは謝らなくていい」

 ボクがね、と相手がしゃべり出す前に言葉を続ける。

「ボクが怒ったのは、お母さんネコのことを悪く言われたところだけなんだ。他は全部、キミの言った通りだから。キミに会って、キミとあの迷子の子ネコが話をしているのを聞いて、思い知ったんだ。だからそれでいいよ。そうだな……はっきりと言葉にしてもらえて、逆にすっきりしちゃった。でもさ、どうして?」

「ん?」

「どうして秘密基地を暴くなんて言ったの? ボクに怒ったのならそう伝えればよかったのに」

 少し待って返事がないから見てみれば、燃える炎の子ネコは口をつぐんで目を閉じていた。

 考えてるようにも見えなくはないけど……きっと言わないって決めてるんだろうな。

「ボクが勝ったんでしょ? 教えてよ」

「ぬぁっ」

 卑怯なっ、とでも言いたげな顔なんだけど、ごくりと飲み込んだみたい。ちょっとのあいだ言葉を探していた。

「はじめて会った時、お前がどんな顔をしていたかわかるか?」

「ボクが? ……びっくりしてた?」

 屋根から脚が生えてたし、すごい色に見えたからね。だけど燃える炎の子ネコは小さく首を横に振った。

「お前は笑っていたよ。あのボウズを後ろ手にかばいながら、ワシが牙を剥いて飛びかかってくるのを今か今かと待っているような顔でな」

「なっ、そんなわけないよ! キミじゃないんだから」

 心外だった。よりにもよってこの子ネコに言われるなんてっ!

「そう思っていたかどうかは問題ではない。ワシがそう感じたんだ」

 そして、と。

「お前と冒険をしてみたくなった」

 風は吹いているし、落ち葉の擦れる音もする。耳をすませばきっと虫の歩く音だって聞こえたと思う。だけどさ、ほんの一瞬だけ、耳鳴りがしそうなくらい、何も音がしなかった。

「ワシは一匹で旅をしてきた。家を飛び出し、砂漠を越え山を越え、立ちはだかる野良猫どもをかき分けて、一匹で歩いて来た。いろいろなネコがいたし、ワシよりもずっと強いネコや尊敬できるネコとも出会うことができた。心躍る冒険をしてきたつもりだった、が……逆さまに見たうすい空が、妙に寂しく見えたのだ。この街の屋根の上で見た空がな」

 そんな時に出会ったのが、茶色いマイケルだったんだって。だけど燃える炎の子ネコとは違って、冒険への一歩を踏み出せないでいた。

「その姿に、昔のワシ自身を重ねてしまったんだ。だから発破をかけようとした。踏み出してみろ、と。その先には見たこともない面白いものがあるのだ、とな。……だからあの暴言は忘れてくれ。考えるまでもなく、あれはワシの、昔のワシに対する八つ当たりなのだから」

 燃える炎の子ネコはゆっくりと上半身を起こし、香箱座りみたいに身体を折りたたんで、

「すまなんだ」

 って謝った。本当に子ネコかな。

「……ふははっ」

 思わず吹き出しちゃった茶色いマイケル。目の端に溜まった涙をぬぐう。

「いろんな言葉を知ってるのにさ、キミって言葉が足りないよね。もっとちゃんと話してくれればこんなに」

 茶色いマイケルも起き上がり、片手を後ろについたまま、もう片方の手で服の裾をつまみ上げた。

「こんなに泥だらけにならずにすんだのに」

 改めてお互いの姿を見合った2匹は、あんまりにも汚れていたものだから、くつくつと笑いがこみあげてきて、大いに笑った。笑いながら茶色いマイケルが言う。

「キミの話はちょっと難しすぎる。もっと子ネコに分かるように言ってほしいな」

「何を言う。このくらいの会話は普通だ。お前こそもう少し勉強したらどうだ」

「勉強は……まぁしなきゃだけどさ、キミは固く考えすぎてるよ。もっとお互いが話しやすいようにしなきゃ」

「ふむ。それは一理あるかもな。しかし具体的にはどうするのだ? ワシはずっとこの調子だったからな、普通の民ネコがどう話しているのかよく知らん。よければ指南してくれ」

 指南って、と苦笑いする茶色いマイケル。

「そうだなぁ……そうだね、うんわかった。誰とでも話しやすくなるコツがあるんだけど、それを教えてあげようか?」

「興味深い。聞かせていただこう」

 それはさ。

 分かるでしょ? と茶色いマイケルは小首をかしげて見せた。

 ぽっと間が空いて、燃える炎の子ネコは虚を突かれたような顔になる。

「……そうか。あれだこれだと言う前に、ワシらはまだ一度も名乗り合っておらんかったのか」

 それならば、と燃える炎の子ネコ。

「ワシから名乗らせてもらおう。ワシは灼熱の大地、アップル・キャニオンからやって来た、その名を『マイケル』と言う。ありふれた名前だからな、皆はこう呼ぶよ」

『灼熱のマイケル』

 それがこの、燃える炎の毛をした子ネコの、本当の名前なんだって。

 知ってた?

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