2-12:無力感

ホロウ・フクロウの大森林と灼熱のマイケル ホロウ・フクロウの大森林と灼熱のマイケル

***

 ピュンッ、ピュピュピュンッ!

 その樹はほとんど枝がなく、空に向かって真っすぐ伸びていた。

 なのに燃える炎の子ネコは、まるで水滴がグラスの表面を伝うような滑らかさで地上まで降りてきたんだ。

 ほとんど音をたてないまま地面に降り立ち、肩をグルングルンと回しながら歩いて来る姿を、茶色いマイケルはヒザをついたまま見ていた。

 木々が避けているようにも見える。さっきまで恐ろしげに曲がりくねっていた木が、今は怯えているようだった。

「だ、大丈夫? ケガは、ない?」

 まだうまく回らない舌で、たどたどしく尋ねると、

「ああ。この毛のおかげだな」

 そう笑って、長くて柔らかそうな毛をひと房、肉球の上でもてあそぶ。

 聞けば、ホロウ・フクロウの大きな足に握りこまれた時、柔らかな毛が緩衝材になったんだって。食い込もうとした爪を、毛がするりと滑らせたから、ケガはしなかったらしい。

「まぁ、食い込んだとしてもこの鋼のような肌に傷などつけられはしないがな」

 むふー、と身体を膨らませる。茶色いマイケルは小さく息をついた。

「でもさ、どうしてホロウ・フクロウは倒れちゃったの? 闘った様子はなかったけど」

「ん? 闘ったさ。闘って、ワシが勝ったんだ」

 こういう意固地なところは子ネコっぽい。

「正直に言えば、はじめ掴まれたとき、ヤツがどこから来たのか、いや、何をされたのかすら分からなかった。気づけば樹上まで運ばれていて、眼下にはおろおろと狼狽えるお前の姿がポツリとあった」

 茶色いマイケルは耳を伏せる。冗談で言っているってことは、わかってたんだけどね。

「状況を飲み込んだのは、ヤツが樹のてっぺんに降りた時だ。なるほど、これがフクロウの無音飛行かと恐れ入った。この森では鼻が利かない分、そこら中に注意を払っていたのだがな。それでも気配を察知することすらできずに捕まったのだから、何とも情けない」

「そんなことないと思うけど」

「しかしヤツはネコを甘く見ていたようだな。お前に嫌がらせをすることに夢中で、脚の握りが弱くなっていた。この滑らかな毛と、わずかなすき間さえあれば、身をよじって抜け出せるというのに」

 そうか、ネコジャラシ……! 燃える炎の子ネコはネコジャラシみたいにスルスルっとあの脚から抜け出したんだ。

「そのあとは、ヤツの耳の良さを使った」

「フクロウって耳が良いの?」

「うむ。ヤツらは普段、この暗い森の中で地を這う虫やネズミを食べて暮らしているからな。落ち葉の擦れる音にも敏感になる。あの落ちくぼんだ眼も、音を集める力があるのだ。きっとワシらがこの森に入ってくるずっと前から待ち伏せていたのだろう。でなければああも群れたりはせんからな」

 すらすらと見解を口にする姿に、茶色いマイケルは、

「へぇ……。そうなんだ」

 となんだか気のない返事になった。燃える炎の子ネコはヒゲを、ほんの微かにだけど、ピクリと動かした。

「ワシの声が聞こえただろう」

「え? ああ、あの大きな声? あれってやっぱりキミの声だったんだ。どこかで何かが爆発したのかと思っちゃったよ」

「言いえて妙だな。そう、声を爆発させた。素早くヤツの耳元までよじ登ってな」

 樹をスルスルと滑り降りたみたいに、ホロウ・フクロウを登る姿がありありと浮かんだ。あの一瞬でそんなことを? って思ったけど、うん。一瞬もいらないかも。……この子ネコなら。

「ワシらでも間近で大きな音を出されると頭がくらくらするだろう。耳のいいフクロウならなおさらだ。所詮は生きものだからな、めまいを起こして逃げていく。まぁヤツはそのまま気絶したみたいだが」

 ほんのわずかのことだけど、茶色いマイケルは燃える炎の子ネコの目を真正面から見た。もちろんケンカをしようと思ってじゃない。聞いてみたいことがあったからなんだ。

「ん?」

「あ、ごめん」

「……」

 燃える炎の子ネコは視線がそれたのを確かめてから、後ろを振り向いた。そこには、ふらふらと起き上がるホロウ・フクロウたちの姿があった。

 茶色いマイケルはうっ、と身を構えたよ。また一瞬で距離を詰められやしないかって思ったんだ。けれどフクロウたちは2匹の視線に気づくと、マタタビでも嗅いだみたいによろけながら、ぞろぞろと引き上げていった。猫背で。

 2匹はホロウ・フクロウたちが森の奥へ去っていくところを見守った。茶色いマイケルはもちろん緊張していたさ。

 辺りから生き物の気配がなくなり、肉球にすごく汗をかいていたことに気づく。

 のどもすっごく乾いてた。

 少しうつむいてもいた。

 そこへ、

「旅をしていると、己の無力を感じることばかりだ」

 唐突に、背中を向けたままの燃える炎の子ネコが話をはじめた。

 その声は静かで、今までで一番低い。

「いつでも、どこにでも壁ばかりがあった。自信に満ちて旅立ったはいいが、ひとたび外に出てみると、飲み水にさえ自力ではありつけない」

 ふさふさのしっぽをゆらりゆらりと揺らしながら、丁寧に、積み上げるように語る。

「ワシは悔しくて、情けなくて、歯を食いしばった。それだけしても、越えられない壁ばかりだ。当然と言えば当然か。気持ち一つで壁が壊れてくれるのなら、精神鍛錬だけしていればいいのだからな。楽なものだ。しかしそれでは何も変わらない。変えられない。壁は壊せない」

 そこまで聞いて茶色いマイケルはハッとした。

 どうしてそんな話をするのか。燃える炎の子ネコには見抜かれていたんだね。茶色いマイケルがさっきから何を考えていたのかを。

「ワシは思考した。壁にぶち当たる度、その度に考えたのだ。どうすれば前に進めるのかとな」

 振り返り、ようやく見せた顔はひどく真剣だったよ。暗い森の中で、粛々と火の粉を散らす炎みたいに、真剣だった。

「そうしているうちに、壁を壊す方法を思いつくようになったのだ」

 なにも瞬時に思いつくわけではない、と、茶色いマイケルの思い違いまでをも指摘した。

 視線が重なる。

 それがケンカ目的じゃないことは十分に伝わってきたよ。

 だけど、茶色いマイケルはすぐに、自分から目をそらしたんだ。

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