4-50:疲れる景色

***

 山脈が再び震え出した。

 今度は震えるにとどまらず、大地の神さまの後を追うように、ぼろぼろと崩れていく。頂上を残して壁面が崩れ、周りの山々も大きくひびの入った箇所からガコッと割れて、斜面をなだれ落ちていった。

 物凄い音がしていたと思う。何百メートルもある岩が崩れているんだから、尋常じゃない音だったにちがいない。でもね、”向こう側”のことだった。透明な箱に入れられて、向こう側の景色を眺めているだけ。そんな風にしか感じられなかった。そのくせ、壁面が一欠け二欠けするたびに、胸の奥でも何かが崩れていくんだ。

『おーい、ネコー』

 放心に近い状態で山脈の崩壊を見ているとすごく近くで声がした。

『このあと何が起こるか分かるかー?』

 トン、とわずかに重さを感じたのは肩の上。得体のしれない無邪気さは影をひそめ、状況が状況ならこっちまで笑顔になりそうな明るさだ。

 茶色いマイケルは、その透明な姿に目を向けないまま、

「風ネコさま。ひどいよ」

 と震える声で力なくつぶやいた。非難を込めたつもりだった。そうすれば話してくれるんじゃないかって思ったのかもしれない。何か、どうしてもそうしなければならない事情があったって、そう言ってくれるのを待っていた。ううん、願ってた。でも。

『なーに言ってんだー。ひどいのはこれからだぞー』

 咄嗟に左肩めがけて掴みかかった。シュッと爪を出し、木の幹をズタズタにできそうな勢いで、ほとんど突き刺すように風ネコさまに掴みかかった。けど、かすりもしなかった。茶色いマイケルの右手は空を切るだけで、

『なにすんだよー、まーいーけど。でな、これからなんだけど』

 と相手にもされなかったよ。

 風ネコさまが言うには、大地の神さまがいなくなったから、大地がめくれてその下の部分が現れるんだって。ゆで卵の殻を剥くみたいなものかな。そしたらどうなるの、って尋ねたら、

『星の中身が出てくんだよー』

 って、弾んだ声で答えてくれた。ついついため息が漏れる。

 やっぱり子ネコみたいだ。

 神さまってさ、ちょっとすごい力を持っただけの子ネコなんじゃないかな。

 好奇心のままに近づいて、動くものを見れば飛びかかって、脈絡もなくうねうねと暴れ回る。周りのことなんてちーっとも考えずに暴れるだけ暴れて、疲れたらあくびをしてゴロンと寝転がり、むにゃむにゃと夢を見るんだ。

 これからは嵐がきても、雷が鳴っても、地震が起きても、火山が噴火しても、なんか神ネコさまが暴れてるなぁくらいにしか思わないかも。どこからともなく『にゃーん』って聞こえてきそうな気さえする。これからがあればね。

 風の掃除が終わり、世界の色が戻って、クラウン・マッターホルンが崩れていく。ふと目を向ければ、中腹にあった湖の形が変わっていた。パラシュートで降りた時、すぐそばにあったあの湖だ。

 なみなみと水を湛えていた湖は、ひび割れて、周りに水がしみ出し枯れている。その周りにはいくつかの小さな影が移動しているように見えた。ただ、楽しく駆け回っているようにはとても見えない。

 きっと森や他の場所でも同じようなことが起きているんだろう。こんなところにいたのか、というところから鳥が群れをなして飛び立った。

 あの鳥たちはいったいどこへ行くのかな。

 羽を休められる木なんて、もう……。

 視線をさらに下に向けると、地上が発光しはじめている。距離もあるし薄い雲がかかっているからぼんやりとしか見えないけれど、星全体が、暖かみのあるオレンジ色に染まり始めた。せっかく色が戻ったばかりだっていうのに、今度はその色に染まっていく。

 空気の震えで身体が痺れる。

 痺れは子ネコの筋を固く強張らせ、それを見るようにと強いていた。お前の選んだことなんだよ、ってね。

 ひどく疲れる景色だ。

 一休みしたいけど、眠れそうにはないな。

 ああ……体中の毛を毟りたくなってくる。感覚が無くなっているかもしれない。爪で思い切りひっかいて、痛みを感じるかどうか試してみようか。そんなことしたら血がいっぱいでちゃうだろうな。血が足りなくなったら動けなくなっちゃう。でもどっちみちここから動ける気がしないしなぁ。眺めてるだけで一生が終わりそう。

 はぁ。

 どうでもいいや。

 赤みを増す地上のオレンジ色を見ながら、薄雲が事実をぼかしてくれていることに心から感謝した。

 ふと、風ネコさまが顔を覗き込んできた。

『もう生きたくないかー?』

 珍しく心配げな声だったからさ、笑っちゃいそうになったよ。そんな顔してたかな。

 声は他の子ネコたちにも聞こえていたみたいで、緊張した声で誰かが名前を呼んだ。1匹だったかもしれないし、もしかすると3匹全員だったのかもしれない。茶色いマイケルはそっちを見なかった。見ずに、少し考えてからこくりとうなずいたんだ。縦に。

『そーかー。ちょっと寂しくなるけどー、まーいーか。じゃーなー』

 小さな肉球が、ためらいなく耳の穴に入ってくる。目をつむると風の音がした。他のマイケルたちの声はしなかった。他の音が聞こえないようにと、風の音だけを聞いていた。

 もう何も考えたくない。

 ホントにホントにそう思ったんだ。

 地表が捲れていくところなんて見たくない。オレンジ色の発光が何を引き起こしているのかなんて知りたくもない。何かがどうにかなるところなんて考えなくっていい。大事な誰かがどうなる姿なんて……。

 そんなの、ゆっくりと心が押しつぶされていくだけだ。

 いいことなんて一つも無い。誰だって感じていたくないじゃない。何も考えずにいられる方を選びたくもなるってものさ。ついさっきまで生きていなきゃって思って、必死で球雷から逃げていたっていうのに、ままならないものだね、猫生は。

 茶色いマイケルは感覚を全て閉ざし、心を落ち着かせてその時を待った。

 閉ざした感覚が戻ってくるくらいの時間は待ったはずだ。

 小さな肉球が茶色いマイケルの頭に何を引き起こすのかと、想像して、怖くなるくらいの時間、待っていたと思う。

 だけど。

 いつまで経っても何もなかった。10数えても何も起きない。もしかしてボク、もう死んでるのかな、目を開けたらどんな世界が広がっているだろう、なんて考える余裕まででてくる始末さ。だんだんと周りが気になってきて、目を開けたくなってくる。開けないといたたまれない気になって、気になって気になって仕方がないから、だから、思い切って開けたんだ。そしたらさ、

 え?

 みんな止まってた。

 何かに気を取られてというふうじゃなく、ビターッと完全に、毛の一本すら動かさずに止まってた。

 しかも夜になってた。

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