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『なぜ、ここにいるのだと聞いている』
空気が帯電しているらしく、子ネコの柔毛がわっと逆立った。周りを見れば、小さな光の筋がパリパリッと何もないところを走っている。
子ネコたちからの声はない。威圧感と切迫した状況に、身体が強張ってしまって返事をできずにいたんだ。
だけど、そんなことは知らんとばかりに、
カッ、
と脳を貫くような閃光が両目から入ってきた。
と同時に轟音の中に放り込まれる。咆哮だ。あわてて耳を押さえなければ鼓膜が破れていたかもしれない。
さらには周りの温度が急速に上がった。茶色いマイケルは膨らんだ空気に押しつぶされそうになったよ。息苦しさに膝をつき、足跡だらけの雪の上に額を突っ伏した。
しばらくは動けないでいた。遠く離れていく轟音。それを聴くともなしに聴いていると、
ぴしり。ぴしり。
と今度は薄いガラスを割るような音を耳が拾った。足音だ。ようく聞けとばかりにゆったりと、空の上を歩いてくる。一歩一歩近づく密度の違う存在感に、脳髄が餌になってしまえと命令してくる。
いやだ。でもこわい。と芯が痙攣しだした時だ。
「雷雲の神とお見受けします」
耳に飛び込んできたのは虚空のマイケルの声だった。「失礼するよ」とでもいうような気安さだったからかな、言葉を向けられた神さまもごく当たり前のように、
『いかにも、俺は雷雲の神』
と答えた。
『雷雲の力をつかさどり、空に属する神たちの中でも、特に、荒々しい権能をもっている。お前たちも知っているだろう。そして恐れているだろう。それでもなお語り掛けるのか、ネコよ。俺の問いに答えもせずに』
やっぱり、と茶色いマイケルは突っ伏したまま身体を強張らせた。目をつむって耳の穴を手で覆う。だけど、
「心得ております。しかしながら、あなた様のためにも是非ともお耳に入れておきたいことがございます」
雷は落ちることなく頭上の雲の中で、パリッと小さく音を立てていた。
『……俺のためにもだと?』
「はい。入山禁止の言いつけに背いた我々子ネコを処分なさろうというのは当然のことでしょう。数日前であればそれでよかった。ですが状況は変わってしまったのです」
茶色いマイケルは上目遣いにゆっくりと顔を上げたよ。視線の先には、大空の神さまの前でそうだったように虚空のマイケルが片膝をついて恭しく跪いている。声と同じで、後ろ姿も震えていない。
どうして、震えずにいられるんだろう。不思議で仕方がない。
眼前には、黒い獣がいたんだ。
遠近感を間違えたとしか思えないほど巨大な獣の器。
その器の中を、たっぷりと雷を蓄えた黒雲が渦巻いている。
雷雲の獣は、四つの脚でぴしり、ぴしり、と重く宙を踏みしめ、品定めするように子ネコたちの周りを行ったり来たりしていた。威圧的なのに滑らかで美しい動き。しかも今までに見た神ネコさまたちと違って、立派なたてがみを生やしていた。極細の雷が、顔の周りをぐるりと毛のように囲んでいたんだ。
幸いにも、ライオ……雷雲ネコさまは話に興味を持ったらしく、
『話してみるがいい』
と尖った岩の向こう側で腹ばいになったよ。もちろん空に浮いている。頭をぶるんと震わせると、ピシピシとそこら中に紫電が散った。
「我々は、ある神の密命を受けてこの霊峰クラウン・マッターホルンへと入山いたしました」
2秒、間があった。
『ふむ、目的は』
「割れた鏡の欠片を集めるために」
『鏡……もしや神世界鏡ではあるまいな』
雷雲ネコさまの胴まわりを赤みがかった稲妻が走る。虚空のマイケルは慎重に、
「修復し、神々の御手にお返しするために、欠片を集めておりました。欠片というのは、おっしゃる通り、神世界鏡の欠片でございます」
と遠回しぎみに話す。パリッと音はしたけれど、大きく光ることはなかった。
『それらを集めたいから俺にお前たちを見逃せと?』
「お言葉ですが雷雲の神よ、我々はすでに欠片を集め終えたのです」
『ほう……では、間もなく神世界鏡が修復されて、今までのように使えるようになると、そういうことか』
「おっしゃる通りでございます、雷雲の神よ。修復後には今まで通り、お好きな時に権能をお使いいただけるかと」
『ふむ』
雷雲ネコさまは上体を起こすと、うつむき、小さく何度もうなづいていた。
虚空のマイケルは、「じゃあ見逃してくれるんだね! ラッキー!」と茶色いマイケルみたいにすぐ飛びついたりはせずに、
「ご存じのようにここ、クラウン・マッターホルンを中心として神々の世界は大変な緊張状態にあります。我々には考えも及ばないほどの役割を担っていらっしゃる神々にとってその緊張状態は、役割の妨げにしかならないことでしょう。ですがご安心ください。神々の秘宝、神世界鏡が本来の力を取り戻したならば、その暁には再び神様がたの世界にも平穏が戻るに違いありません」
と念を押したよ。
『お前に密命を与えた神がそう言っているのだな?』
「もちろん我々ネコなどの軽い言葉ではございませんのでご心配には及びません」
『ではその神の名前を聞かせてくれ』
ピクリとしっぽが動きを止める。だけど冷静に、
「申し訳ありません。いたずらに他の神々を刺激してはならないという理由から、そのお方のお名前を申し上げる権限は与えられていないのです。心苦しい限りですが、どうぞご理解いただきたく」
と反応を伺いながら言葉を重ねたよ。その甲斐もあって、
『そうだな、むやみに語るべきでない名前もあるだろう。特に今、この山ではな』
と思いがけず共犯者じみた反応が出てきた。もしかしなくても雷雲ネコさまはもう、大空ネコさまがそうだって気づいているのかもしれないな。
『実のところ俺も神世界鏡を使おうと思って来たのだ』
ニッコリと微笑むような声に、子ネコたちの緊張もいくらか和らいでくる。茶色いマイケルも、「いったい鏡を何に使おうと思ってたのかな?」って、次に尋ねることまで考えちゃってた。だけど、
『俺が預かってもいいぞ?』
なんて、思いついたように言うものだから、緩んでいた意図が一気にピーンと張った。糸が見えた気さえするよ。
『聞こえづらかったか。ではもう一度言うが』
「い、いえ、聞こえておりました。思わぬお申し出だったもので、驚いてしまっただけなのです」
『そうか。で、どうだ。俺に預けてしまえば、お前たちは気兼ねなく下山できるだろう。責任をもって修復してやるから俺に預けて構わないぞ』
ごくり、と音が聞こえてきそうな空気だった。それでも虚空のマイケルは息を整えて、
「雷雲の神のお心遣い、大変ありがたく思います。こうしてお言葉を交わして下さるだけでなく、我々の下山の心配までしてくださるとは、恐縮を通り越して歓喜の極み。しかしながら雷雲の神よ。我々は密命を下された神に対して、神世界鏡の欠片を集めて必ずお届けすると、固く約束を交わしているのです」
と淀みなく言い切ったよ。雷雲ネコさまからはパリッと小さく音が鳴っただけ。
「その約束を破るわけにはまいりません。約束を守ることは信頼を得ることと同義であると心得ております。逆にそれを破ることは信頼を失う事とも。矮小なネコごときが、神に対してそんな大それたことが出来るはずもありません。何卒、ご理解下さいますよう」
丁寧に頭を下げる虚空のマイケルに続いて、周りのマイケルたちも頭を下げた。もちろん茶色いマイケルもね。緊張したけど返事は、
『そうか、ならば致し方ない』
だった。
『お前たちが神を敬い、約束を大切にし、最後まで果たそうというのであれば、それを横から奪うような真似をするべきではないと、俺もそう思うよ』
虚空のマイケルはひときわ感激したという声でお礼を言って深く頭を下げた。
パリッと、たてがみの周りで小さな雷がいくつかほとばしった。雷雲ネコさまは『おっとすまない』と言って、重そうな前脚でたてがみを梳くように撫でた。
『ならばせめてお前たちの下山を見守らせてもらおう。ネコにとってこの山は険しいと聞いたが、まったくそんなに小さい身体でよく登って来たものだ』
勿体ないお言葉です、と虚空のマイケルが恐縮する。雷雲ネコさまもすっかり打ち解けた様子で、言葉も柔らかくなってきた。
名前を聞いた時はどうなる事かと思ったものの、下山を見守るとまで言ってくれてるんだから、言葉は交わしてみるものだね。ま、口を開いた瞬間にボッコボコにされちゃうこともあるから、やっぱり慎重になるべきなんだろうけどさ。
それにしてもさっきからパリッパリッと小さな雷がそこら中を走ってるんだけど、なんだろう。雷雲ネコさまが意図して出しているわけじゃないみたいだし、外で遊んだ子ネコの周りをノミがピンピン飛び跳ねているようなものかな? まさか怒り出したりは、しないよね……。
と思った矢先のことだ。
『くっふ』
と声が漏れた。
おや、と思った時にはパリパリパリッと小さな紫色の雷が、雷雲ネコさまを形づくっている雷雲の中でいくつも暴れていた。
なんだろう、今の。咳?
虚空のマイケルもおかしいと思ったらしく、
「いかがなさいましたか、雷雲の神よ」
と強張った声で尋ねる。すると、
『あ、ああ。気にしなくて……くっふ……気にする必要はない』
となんだか苦しそうに俯く雷雲ネコさま。ただ、
『これはいつものこ……くっふふ……いつもの……くっふふふふ』
と震えだしたのは、声の調子からして明らかに、苦しさとは別物だった。
思い出し笑い?
笑いだ。とても可笑しそうに笑っている。それが明るい音だったのなら、茶色いマイケルのヒゲももっとピンピン跳ねていたに違いない。
だけどそうじゃない。楽しいだけの音じゃなかったんだ。
それに、見た目も。
笑いを堪えようとするたびに、雷の動きが活発になっていったんだ。それはいよいよ雷雲ネコさまの身体だけに留まりきらず、空を覆った分厚い黒雲の中にまで増えていた。
今にも何かが弾けそうだ、なんて思ったけれど、限界はすぐに来た。
『くっふふふふふはは!』
その高笑いには、これまでの雷雲ネコさまには無かった、無邪気な荒々しさが満ち満ちていて、茶色いマイケルたちは一斉に身構えたよ。
雷雲ネコさまが尻尾を立てる。尻尾の先から放たれた雷光は真っ赤だった。
『ああ、惜しかった。もう少しで面白いものを見られただろうに』
赤い雷光は頭上を覆った黒雲へと突き刺さり、辺りを一瞬、不吉な色で染め上げた。
『なぁ、ネコどもぉ』
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