4-31:第6ポイント 岩壁

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 第6ポイント。

 雄大と仰いだ稜線は見当たらず、目に映るのは岩壁ばかり。その岩壁にしてもほぼ垂直で、道と呼べるものもすでに無くなっていた。荒く割った氷のような崖を、ひたすら上るばかりなんだ。

 氷という例えは、見た目ばかりじゃないよ。

 岩壁の表面温度は明らかにマイナスで、うっすらと靄みたいなものが発生して漂っている。

 まさに凍てつくと言った言葉がぴったりと当てはまる、鋭くて痛い寒さだ。ホロウ・フクロウの森で感じた、湿度の高さによる体感温度の低さとはまた違う、残酷なほどに純粋な寒さがそこかしこに満ちていた。

 茶色いマイケルたちは、あれから何度か小規模な土砂崩れのようなものに襲われ、その度に神世界鏡の欠片のお世話になった。

 けれど壁を登る必要が出て来た辺りで欠片を吸収させて、岩の割れ目にハーケンを打ちこんで装備を整え直したんだ。

 クライミングネコグローブ、アイゼン・キャット・ウォーカーはそのまま装着し、出来る限り外気の入る隙間のないよう、薄手の防寒着を皮を被るように重ねて着た。この防寒着も空の技術をふんだんに使った優れものなんだけど、今回メインとなるのは特別登攀とうはん用装備『シエル・ハーケン』だ。

 薄い金属板だったこれまでのハーケンと違い、やや機械仕掛けが目立つ。

 見た目と使いかたはウイング型のワインオープナーに似ているかな。岩と岩との隙間に差し込み、そこからザイルを通す穴に指をかけてぐっとねじるんだ。すると隙間の奥の方で四方に杭が飛び出し、岩に噛みついて安定するってわけ。ハンマーを使って叩く必要がないから片手でも使える優れものさ。

「第5ポイントでもこれを使えば良かったんじゃないの?」

 3回目の携行食をかじりながら茶色いマイケルが尋ねると、

「両手を使わなくて済むシエル・ハーケンは、この先の最重要ギアだ。丈夫であっても物は物、消耗が激しくなれば使えなくなる危険も出てくる。ただのロックハーケンで事足りるなら、出来る限りそれを使うべきだからな」

 と同じく携行食をカリッと齧る虚空のマイケルが答えてくれた。茶色いマイケルは虚空のマイケルとペアを組むことになったんだ。

 岩壁登攀には2匹一組でスタカットビレイネコシステムを使う。

 なんだか長い名前だけど、要は1匹がシエル・ハーケンを打ちこみ安全を確保しておいて、その間にもう1匹が登るっていう方法。

 もし登っている1匹が落ちても、最悪、もう1匹を支点として宙づりになって助かるっいう安全な登り方だよ。ま、登る方のネコが途中途中に中間支点を作るから、支える力は分散されるんだけどね。これを2匹が交互に繰り返していく。

「支点確保! 登っていいよ、虚空」

「わかった、よろしく頼む」

 茶色いマイケルが虚空のマイケルに向かって張りのある、曇りのない声で呼びかける。虚空のマイケルは一度目をつむり、それから確実な足取りで登っていった。

「よし、支点確保! さぁ来い茶色いマイケル」

「おーけい、登るね!」

 2匹の登りは順調そのものだった。特に虚空のマイケルが先に登る場合、身体運びがしやすいようなルートを見極めているみたいなんだよね。中間支点にしても無理なくカラビナを引っかけられるような場所だしさ。茶色いマイケルが登っている時も下から、

「手前のくぼみに足を引っかけ、右手側の隙間に支点を作ると次へ移りやすいぞ」

 って丁寧に教えてくれるから、迷って余計な体力を使わずに済んでいた。

「支点確保! 登っていいよ、虚空」

 数えるのを忘れるくらい交互登りを繰り返し、そろそろ第6ポイントの欠片の周辺だという時だった。

「見てくれ茶色いマイケル」

 そういって差し出した手の上には真っ白な雪。ゴーグルとネコジャケットの襟とで顔は見えなかったけれど、表情の伝わってくる声だった。

「さすがにパウダースノーとはいかないな」

 シエル・ピエタは標高でいうと一万メートル付近にあるから、雲といえば擦れた巻雲か、発達した積乱雲くらいしか流れて来ない。しかも大気圧を調整してあるからそういう雲だってネコの多い場所には近づけないようになっている。雪はとっても珍しいんだ。見られるとすればここ、クラウン・マッターホルンだけど、よほどの用事がない限りここまでは来ないだろうからね。

 虚空のマイケルは、滑りやすいから気を付けろとは言わないで、その雪を空にかざして眺めていたよ。よほど気に入ったのか、軽くゴーグルを上げると笑ったみたいに目を細めてもいた。

 だけどやがて眉間にしわが集まり、怪訝な顔にかわり、瞬間、くわっと大きく見開いた。

「空だ! 降ってくるぞ!」

 茶色いマイケルは穏やかな心地から一転、毛を逆立てて示された方を仰ぎ見る。

「太陽ぉ!?」

「火の玉、火山弾か!?」

 下にいた2匹もすぐに確認したみたいだ。

「こうなればワシがっ!」

 噴石を粉々にした灼熱のマイケルが思い浮かぶ。だけど今度はそうはいかないらしい。

「耐熱装備がない! 火傷では済まないぞ!」

「ならばどうする! 狙ったようにこちらへ飛んでくるではないか!」

「すぐに飛び移れるようにもう一つ支点を作れ! 衝突地点を見極めて避けるんだ!」

 お尻を叩かれたように茶色いマイケルは機敏に動いた。少し離れたところに跳び移りそこにシエル・ハーケンを差し込むとピシッと岩をかむ音。振り返り火の玉を見る。本当に火山弾なのかどうかは分からないけれど、今できることは衝突地点を見極めることだけだからね。

 ザイルを伸ばし、いつでも大きく降下出来る状態も作った。カラビナを一つはずせばもう一つの支点を使って逆方向に飛び移ることだってできる。

 どこだ……どこに落ちる!?

 空気が震えている。いや、身体かもしれない。

 見極めたのは虚空のマイケルだった。

「茶色いマイケル! 左だ、左へ飛べ!」

 よかった!

 想定していた動きでカラビナを外し、ザイルをぎゅっと握って岩を蹴る。すると支点を中心に振り子の動きで逆側に飛び移って――。

「なっ!」

 叫んだのは虚空のマイケルだ。驚きと恐怖が滲んでいた。が、何かは確かめられない。茶色いマイケルはまだ宙を、ブランコみたいに勢いよく渡っている途中だったんだ。嫌な予感に肉球がドロリと汗をかく。

 直後、今までいた場所が重低音に押しつぶされた。弾けた破片がネコジャケットを打ちつけ、振り子が加速する。茶色いマイケルは目を必死で開けて、視線の先に見つけた出っ張った岩をつかもうと手を伸ばした。いや、つかんだ!

 あたたかい……?

 岩をつかんだ指先がそう感じた。だけどそれは温度ではなく柔らかさだったんだ。岩の裏側に生えていた、おそらくは苔だろう。

 そこに、

「もう一発くるぞ!」

 虚空のマイケルが再び警告する。

 だめだ、しっかり捕まっていられない!

 ぬるりとした感触が離れていく。振り子が戻り始めたんだ。つかんだはずの岩がゆっくりと遠ざかり、身動きのとれない宙空で、手を伸ばしたまま身体が後ろに引っ張られていく。

 熱の塊が迫ってくるのを感じた。「茶色ォ!」と叫ぶ声が重なる。

 え、ここで?

 トクンと心臓が一鳴りする。

 頭の中が真っ白になっていく中、茶色いマイケルは急激に変化する景色を見ていた。いや、走馬燈じゃないんだ。単純に、周りの景色が下に流れて――。

 虚空?

 上から滑るように降りて来た子ネコと目が合った。自重を使って、茶色いマイケルを引き上げてくれたらしい。

 そこからはまるでコマ送りのようだった。

 思いきり伸ばされた虚空のマイケルの手。茶色いマイケルも手を伸ばす。今度はつかんだ。クライミングネコグローブの肉球を合わせるようにしっかりとつかんだんだ。

 なのに。

「三発目だぁああ!!」

 灼熱のマイケルの叫びが一瞬で途切れた。

 音に次ぐ音。痛み。爆風。

 狂った平衡感覚。上も下も分からない状態。めまぐるしく回る景色。

 何が起きたか頭が追いつかない。

 それでもネコの動体視力は見逃さなかった。

 クライミングネコグローブから鋭い爪を伸ばした虚空のマイケルが、茶色いマイケルとの間にあったザイルを切り裂いた。子ネコはトンと茶色いマイケルを突き飛ばし、目元で微笑んだ。

 落下していく虚空のマイケル。

 眼下には突き出した岩があった。激突した。音は聞こえなかった。

 柔らかくなった身体が、遥かな谷底へと遠ざかっていく。

 だからさ、茶色いマイケルは蹴ったんだ。つかめただろう岩を蹴りとばし、虚空のマイケルを追いかけて落下した。下にいた2匹がすれ違いざまに「茶色ぉ!」と叫ぶ。その声に振り返り、

「先に!」

 上を指さした。

 それからもう一度、近くの岩を蹴って谷底へと加速したんだ。

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