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「ここからは登頂ルートに入る」
午前7時ぴったりに山小屋を出た4匹は、簡易標識のある三叉路に立っていた。
「まず山の裏側にある第3ポイントへと回り込み、そこからぐるっとこちら側に戻りながら第4第5第6ポイント、そして頂上である第7ポイントを目指す」
クラウン・マッターホルンへ来て3日目、茶色いマイケルたちはいよいよ山脈中央の犬歯のような山を登っていくよ。
「山脈は元々、ネコたちの生活資源として大地の神より贈られたものだ。中腹の高原地帯である山小屋の周りには、樹木も小川も湖もあって、ネコたちには適応しやすい環境だった。だがここからは違う」
この先の環境については、改めて言われるまでもなく胸の奥で感じていた。
それでも3匹が息をのんで話に聞き入っていたのは、眼前に聳える山がまさに牙を剥くといった風体で佇んでいたからだろうね。巨大な爪や角にも見える。
すでに勾配はきつくなっているし、周囲の他山も怪しくけぶっていてどことなく不穏だ。それになにより頂上付近は明らかに垂直寄りだからね。岩壁を登るための動きをもう一度確認しておかなきゃ、と腰から下げたザイルに思わず手が伸びた。
今日の装備は衝撃吸収や散策に特化したものじゃなくって、この先の環境に順次対応できるよう、種類を充実させてある。
ネコジャケットとズボンは気温に応じて脱着しやすいよう、重ね着を前提に複数枚。ゴーグルとクライミングネコグローブはすでに付けているし、シュラフやテントを丸めて積んだザックは見るからにパンパンだ。ネコヘルも今つけるところ。
腰のベルトには、カラビナっていう金属製のリングがいくつも下げてあり、それにザイルやアイスバイル、マスクなんかを吊っている。ズシリと重さは足にくるけれど、本当はもっともっと持っていきたいくらいさ。
「険しい道のりになることは分かりきっている、だが乗り切ろう。灼熱のマイケルが言ったように、神を相手取るよりは容易いことだからな」
最後に後戻りは極力しない旨の話をして、虚空のマイケルは先行偵察に向かった。
3匹はその後ろ姿が十分に離れるまで目で追い、それからそれぞれに目を合わせ、何を言うでもなくコクリとうなづいた。
山はすぐに、子ネコたちに爪を立ててきた。
第3ポイントである火口湖は地続きの他山にあたる。
大きくてごつごつとした岩が湖を囲むように密集し、湖面からは蒸気が発生している。伝わってくる熱気が水温の高さを感じさせた。
山岳地図を元に辿り着いた時にはまだ動きはなかったんだ。けど、神世界鏡の欠片が湖の向こう側にあるようだと、およその位置を絞ったあたりで蒸気が濃くなり始めた。
果実のマイケルが鼻をすんと鳴らし、カラビナの一つを外す。
「火山性ガスかも、マスク準備してぇ。フィルターには限界があるからぁ、手早く終わらせよう」
4匹はマスクをかぶり、息が上がらないよう整えつつも出来る限り急いで足を進めた。大岩の隙間を縫うようにね。でもいつしか周りが薄暗くなっていたんだ。どこからか流れ込んできた噴煙が、風のない火口付近に澱んだらしい。
「いけない、これでは互いを見失ってしまう」
4匹ははぐれてしまわないようザイルを繋いで、虚空のマイケルを先頭に、果実、茶色、灼熱の順で一列になって進んだよ。滑落の心配はなくても、一度はぐれちゃうと噴煙が止むまで探しに行けないからね。
だけどいよいよ2メートルも視界が効かなくなってきた。
「ねぇ虚空ぅ、引き返した方がいいんじゃなぁい?」
虚空のマイケルが歩みを止めて振り返った。そこへ追いついた灼熱のマイケルが、
「いや、すでに半分以上進んどるからな、引き返すにしても視界が悪すぎる。ここは手を打って欠片の力にすがるとしよう」
と言って茶色いマイケルの肩を叩いた。
「おい茶色、アレを試してみてくれんか」
アレと言われても……と言いたいところだけど、すぐにピンときた。
「あれって、もしかして声の?」
「ああ。岩石をすいすい避けられれば大幅に時間を短縮できるからな」
灼熱のマイケルが言ってるのはさ、メロウ・ハートの円形野外劇場の地下で茶色マイケルが出口までのルートを見つけた方法だよ。音の反響を聞いて通路を導き出した方法を応用しようって話らしい。
大空の国へ渡る前に3匹で、何度か鬼ネコごっこをしたんだけど、その時に灼熱のマイケルがすごいって言うから時々練習はしてたんだ。
「それより灼熱が岩を壊しながら進んだ方がいいんじゃない?」
昨日の動きを見た限りじゃ、それが最短に思えるんだけど。
「残念ながら動くものの補足は得意だが止まっているものはいま一つでな、スピードが求められている今、茶色に頼った方がいいと思うのだ。それに噴石があった場合に備えたい」
そうか、噴煙が来てるってことは近くの火山が活性化して、また石が飛んでくる可能性があるんだ。
「わかった。頑張ってみるよ。じゃあ声出しを果実にやってもらっていいかな」
「ええぇ? なんでオイラ? 灼熱が声を出せばいいじゃないぃ、声だけはバカみたいに大きいんだからさぁ」
身長と違って、と小さく付け加える。
「ワシの声はまっすぐ飛びすぎるからな。その点、お前のたるんだ腹から出てくるたるんだ声は、広範囲によく響く。一帯を”聴く”にはもってこいだろうて。まぁ、たるみ過ぎて思わぬ方向に聞き違いさせてしまう可能性もあるがな」
こんな時でも軽口を言わなきゃ気が済まないみたいだね。茶色いマイケルはそう思いつつもリラックスしているのを感じた。
「というわけだ虚空。先頭を茶色と変わってくれんか」
「それは構わんが……大丈夫なのか、その、聞き間違いというのは……」
「あふふ、真面目だなぁ虚空はぁ。冗談に決まってるじゃないかぁ」
「たるんだ腹は冗談ではないがな。カワイソウ」
「もう2匹とも軽口はそこまでにしてよ。大丈夫だよ虚空、ちょっとくらい間違えちゃうかもしれないけど、落ちるような場所じゃないって分かってるし、十分に気を付けて行くからさ」
「そうだな、疑って悪かった」
そうして茶色いマイケルは先頭に立ったよ。「あ~」という果実の声は、調子っぱずれながらもよく響いていたし、風や地響きといった邪魔な音もなかったから本当にすいすい進めた。
たださ、ちょっとばかり急ぎ過ぎたかもしれない。
カチリとカラビナの外れる音が聞こえたからなんだろうと思って振り返ったら噴煙の向こうから、
「くっ、すまん!」
って、また例のあれが聞こえて来た。まずいと思って「灼熱!」って声を飛ばす。すると、
「任せておけ!」
「なっ!?」
と虚空のマイケルが捕まったらしい様子が聞き取れた。
「さすがにもうお前の行動は把握しておる! 捕まえておいてやるから観念して先へ……あっ、こらっ、なんだとっ!?」
「な、なにごとぉ!?」
茶色いマイケルの耳が捉えたのは、灼熱のマイケルの手を振り払って列を離れた虚空のマイケルの姿だった。
「王家直伝『脱出ネコ術』かっ!」
なにそれっ!? いや、それよりも虚空を追わないと!
「ダメだよ虚空! 戻ってきて!」
しかし返事はやっぱり、
「すまんっ」
の一言だったんだ。
結果から言うと大事には至らなかった。虚空のマイケルは少し離れたところで躓いて気絶する程度で済んだんだよね。運がいいのかなんなのか……。いや、運はいい。それもとびきりね。
「こやつ、持っておるぞ」
「持ってるねぇ、虚空」
虚空のマイケルが躓いたのは、そう、神世界鏡の欠片だったんだ。
「面倒なやつだと思ったが、これは使えるな」
真っ白にけぶる視界の中、見えないはずのワルい顔を見た気がした。
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