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そこには銀色の森が広がっていた。
巨大な針葉樹が延々と立ち並び、その太い幹の、根本に生えた草の一叢(ひとむら)からさらに下、地面に転がる欠けた小石に至るまですべて、銀の液体に浸したような鈍い輝きを放っている。
鈍くて、洗練された輝き。
それは鋭くて、刺すようで、さして寒くもないのに冷たく見えて。目を瞑ってみると雪原が脳裡にうかぶ。茶色いマイケルはこの銀色の森に故郷の雪景色を重ねてみたよ。
だけどなにか違う。
さっきまで大量のメカネコたちを見続けていたからかな、雪景色に感じる“冷たいけど広く包み込むような温かさ”というよりは、機械的とか無機質な印象が真っ先に思い浮かんだ。
ただ、しばらくこの森を歩いていると、もっと奥深い色なんじゃないかなとも思えてくる。
銀色を一色で表現するのは難しい。金属光沢と言われる鏡のような照り返しがセットになっているんだ。
生真面目そうなこの色は、意固地で孤独でなんとなく紳士的で、さらにはどこか優しい感じがした。
寂しげな空にも見えてくる。
きっと心を揺らす色なんだ。
茶色いマイケルは靴裏に土の柔らかさを感じて歩きながら、針葉樹のてっぺんに目を凝らした。つんと尖ったその先端からは何かがゆっくりと膨らんでいる。優しくスポイトをつまんだ時に出る、丸い銀色の水滴みたいなものだった。
それはやがて切り離されて、ぽよぽよと空の上へと浮かんでいった。そのまま高く浮き上がり、金属の湖面にでもたどり着くのだろうか。そんなことを思いながらしばらく眺めていると、あれも泡に似ているなと思ったよ。
***
前を歩いていた虚空のマイケルが振り返った。うなずいて軽くしっぽを揺らす。異常なしの合図だ。
気絶していた冷気ネコさまや泡雪ネコさまはもう自分たちの足で歩いていて、クロヒョウたちも3匹そろって周囲を警戒している。目覚めていないのはジャガーネコと、茶色いマイケルの背負っているオセロットくらいのものだった。総勢17匹。大所帯だ。
だけど誰もしゃべらない。
永久に騒ぎ続けるかと思っていたコドコドたちでさえ声を漏らしていない。
ネコたちの群れは今、木々の間を流れる『黒い靄』に沿って、できる限り音を立てないよう慎重に歩みを進めていた。
茶色いマイケルは、虚空のマイケルの合図に従って前に出ると、耳に手を添え、右から左へとゆっくり体を動していった。
ピクリとひげが跳ねた。
すぐさま虚空のマイケルが寄ってきて「何かいたか」と目で訊いてくる。茶色いマイケルは左手で他のみんなに『止まれ』を示し、右手の猫差し指を立てて“聴こえたソレ”の動きに合わせて動かしてみせた。太い幹の向こう側、左から来て右の方へと歩いている様子がはっきりと“聴こえた”んだ。
『ぜってー音立てんじゃねーぞー』
子ネコたちの後ろを歩いていた風ネコさまが、そよ風くらいの声を茶色いマイケルに吹きかけた。そこへ、
みゃぁぁぁぁぁあ
ソレの鳴き声だ。
ネコの鳴き声に似ているけれど、知らない音が混ざってる。耳慣れない高い音と低い音とが練り込まれているんだ。さらに、パキッ、という音が加わった。
近い。緊張が走った。みんなの視線がソレのいる方へと向かう。だけど茶色いマイケルは見てしまった。音の出どころはソレじゃなくって――
――風ネコさまはうつむき、自分の足元をじっと見ていた。踏んでいるのは細い枝。見ている方がゲッソリしそうな気まずい沈黙だ。
耳を澄ます音が聞こえた。
音を聴くために全ての動きを止めた音のない音。茶色いマイケルの頭に描いたソレの形がすうっと“見えなく”なっていく。
絶対に動かないで!
そう顔で叫び、両手をみんなの方に突き出した。
たっぷり30秒は経ったかな、ソレの視線が外れたのを感じた。とりあえずこちらは見ていないようだと、ゆっくりと息を吐く。
虚空のマイケルがうなづいてみせる。
確認よろしく、と茶色いマイケルもうなづいた。
虚空のマイケルは巨大な木の幹にスーツの背中を押し当てて、いつでも動きを止められるくらいにゆっくりと、その向こう側をのぞき込んでき――
ビクッ。
子ネコのしっぽがピンと立ち、毛が逆立った。首のつけ根から頭のうしろを通って耳の先へと撫で上げるように毛が膨れていく。茶色いマイケルは身構えた。
いったい何が。
身を戻す動きもゆっくりだった。ようやく振り返った虚空のマイケルは目と口とを丸々広げて、
「ま……ま……ま……!」
今にも叫びだしそうな顔をしている。まずい。動いたのは神ネコさまたちだ。雪雲ネコさまと冷気ネコさまが音を立てずに近寄って、しっぽの先で虚空のマイケルの口に封をする。それでも子ネコはまだ何か言おうとしているようだった。
痺れを切らしたのは灼熱のマイケルだ。怪訝に眉を捻じ曲げて「ワシに任せろ」と掌の肉球を見せてくる。茶色いマイケルはもう一度音の確認をしてから、親指を立てたよ。
すると灼熱のマイケルも固まった。
のぞき込んだ態勢のまま、しっぽを立てて毛を膨らませてから彫像にでもなったみたいに固まった。長い毛の先までがピンと伸びている。
茶色いマイケルは果実のマイケルと顔を見合わせた。2匹で木の向こう側をのぞき込む。
瞬間。
茶色いマイケルの左右の肩から、小さな前足が差し出され、口を塞がれた。コドコドたちだ。
「――――――――――!」
さらには後ろから引っ張られた。4匹が4匹とも神ネコさまたちに引きずられ幹の裏側に連れて行かれる。
『なに考えてんだやべーって言ったじゃねーかー!』
声をひそめて怒鳴る風ネコさま。それもなかなか珍しいけどそれどころじゃなかった。目をあけすぎて頭がパカッと開きそうだ。子ネコたちは驚きと喜びでごった返した騒がしい顔を互いに見合わせ、ソレが確かにアレだったことを、口を手で抑えたまま確かめあった。
あれは、マークィー!
***
マークィーは子ネコの憧れなんだ。
絵本に出てくる伝説の獣。
ずんくりむっくりと熊よりおっきな毛むくじゃら。全身の毛は黒に近い焦げ茶色で、しっぽは少し太めかな。おしり側から見るとうずくまったネコみたいで、毛の生えた巨大な雪うさぎを想像すると大体あっている。
顔はアライグマに似ているんだ。耳の先は丸っこくて、目の上には太い眉みたいな模様がついている。つぶらな瞳と合わせると愛嬌があって優しそうに見えるよ。
『あんなのただの丸っこい獣じゃねーかー。なんでそんなに興奮してんだよー』
焦りを隠そうとしない風ネコさまがかすれた小声でそう尋ねた。
乗れるから!
しかもみんなで!
熊よりでっかい背中にむしゃっと毛をつかんでしがみつくんだ。絵本には子ネコたちが乗ってダダダッと駆ける姿がいかにも勇猛に描かれている。何よりピンチの時には一目散に駆けつけてくれて一緒に闘ってくれる。伝説の剣だってみんなを背中に乗せたりはしないよ。
伝説の獣っていうだけじゃない。
マークィーは伝説の相棒なんだ。
ただ――
***
太い幹の裏、子ネコたちのしっぽは縄跳びみたいにぶんぶん振り回されていた。近づけば風ネコさまだってバチンと叩かれる。
『いてー。おいおいおいネコよー、やばいからなー? ホントにヤベーからしばらくじっとしてろよー?』
『氷柱、霙、どう?』
冷気ネコさまが尋ねると、幹の向こうをのぞきこんでいるコドコドたちのしっぽが、2つ重なって✕をつくった。
まだいるんだ!
そう思ったと同時に子ネコたちは動いていた。ずずずいっとコドコドたちに覆い被さってマークィーの姿を見る。
『み、見つかるなよ!? ぜってー見つかるんじゃねーぞ!?』
小声で焦るのは雪崩ネコさまだ。だけど子ネコたちの興奮はおさまるどころか勢いを増すばかり。
「氷像とそっくりだ!」
「絵本よりやや顔が小さいか!」
「あれだけ身体が大きければたしかに毛を握られたくらいでは痒みさえ感じないだろうな!」
虚空のマイケルでさえはしゃいでる。そこに果実のマイケルがひときわみなぎった声で、
「でかすぎぃ!!」
『『『しー!』』』
いよいよ収拾がつかなくなってきた。神ネコさまたちは本気を出し、子ネコたちを木から引き剥がしにかかる。襟や袖を噛んでひっぱる。だけど子ネコは負けない強さで木の幹にくらいつく。さらに強い力で引っ張られるけど、子ネコは必死になって獣の姿を見続けた。
ぽんっ。
そういう音がしたように思えた。
音は出ていない。
すっぽぬけたんだ。
神ネコさまたちの口から服が外れ、弓を放ったように子ネコが飛び出した。一瞬の無重力のあとズザザッと銀色の土煙をあげながら茶色いマイケルが倒れ込む。他のマイケルたちもその上に覆いかぶさった。『『きゃうん』』とコドコドたちの声も聞こえたよ。
「あいてっ」
と言ったその瞬間だ。氷水を浴びせられたように頭がスッとして、
「「「「あ」」」」
大樹の幹にガリガリと爪跡を残していたマークィーとまともに目が合った。すると、
びきびきびき
優しく円弧を描いた眉の下、つぶらな両の瞳のさらに下にある、真っ黒な鼻の頭にみしみしとシワが集まっていく。
びきびきびき
顔つきがまるで変わった。そして、
「みゃぁぁぁぁあ」
マークィーはひと鳴きして頭を振り回し、口からヨダレをまき散らしながら、ぶっ飛んできた。
***
――マークィーはとっても気性が荒いんだ。
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