(75)7-9:つよく、優しい雲

◆◆◆

 リーディアの物語には省かれたシーンがある。

 厄災に心を痛めて立ち上がったリーディアは、しかしまもなく仲間に裏切られ、剣を奪われ果てのない暗闇に落とされてしまうのだ。

 寒さ。飢餓感。震えるばかりの、絶望。

 しかしそんな場所にも光はあった。

 どこから入ってきたとも知れない、芥子粒(けしつぶ)よりもちいさな光。その光を追いかけて行くうちにまぶたを開き、厄災の正体を目にすることになる――。

***

 『金属の霧』けむる戦場のまん中、1匹の巨大メカネコ『メガロ・カットス』の足元に集まったネコたちの視線がそのネコに注がれた。彼女は茶色いマイケルたちに向かって凛とする。

「私たちにはここで争いを終わらせる役目があるの。他の神さまたちも助けなきゃいけないしね」

 顔を覆っていた鬼ネコ面が外され、リーディアさんのまぶたがゆっくりと開かれていく。分かっていたことだけど彼女は黒ネコじゃない。

 やわらかなクリーム色の毛に、鼻の先からうす墨を染み込ませたようなポインテッドの顔。瞳は澄んだ水色だ。一緒に食事をしたときに顔は見ていたはずなのに、毛色の違いはずいぶんと印象を変えて見せた。

「ずっと変装していたの。ごめんね、騙しちゃって」

 リーディアさんは「2度目だったわね」と言って、うすいピンク色の舌をペロッと見せた。なんだか甘いお菓子を食べた時みたいにふわふわした気持ちになったよ。足の裏が地面から離れてしまって、空に連れて行かれそうだ。そこへサビネコ兄弟の叫び声が、金属の霧を突き抜けて響いてきた。

「「―――――――――――!」」

 何を言っているのかは分からないけれどひどく怒っている。さらには砂混じりの風が巻き起こり、茶色いマイケルの頬を叩いて目をハッと開かせた。

「そうだ、お別れって? もしかしてもうレースを諦めるわけじゃないよね? 完走しないとリーディアさんの願いが」

 叶えられないよと言いかけて、実はまだ彼女の願いが何かさえ訊いていなかったことに今気がついた。

 リーディアさんは首を振る。

 その顔に浮かんだのは、とってもキレイで、だけど泣きたくなっちゃうくらいに優しい笑みだった。

◆◆◆

 そんなに悲しそうな顔、しなくていいの。

 私は、泣き出しそうな瞳の子ネコたちを見て、この場所に来たときのことを思い出していた。

 あの広場だ。

 氷漬けにされた大きな噴水のあるあの広場。周りにいた大勢のネコたちもこんな顔で空を見上げていた。私はそれを見てここがどういう世界なのかを理解、ううん、実感したの。

 妙に心が穏やかだった。

 家族ネコと別れてからそう経ってはいないはず。5分間、目をつむっていたくらいの感覚でしかない。なのに心が落ち着いているのはどうしてかしら。もっと慌ていてもいいはずでしょう?

 私は情報を集めるためネコたちに尋ねて回った。この先なにが起こるのかを――。

 それは真っ白なユキヒョウだった。

 目も鼻もなく、小ぶりな頭、丸い耳、がっしりと幅広の足元から長くて太い尾の先まで全て白で塗りつぶしたユキヒョウ。見ることさえためらってしまうほど神々しい獣の姿。ごったがえすネコたちの、溢れかえる彩りの中でその白がどうしようもなく強烈に瞳の中に飛び込んできた。何かと思えば周りはその方を神と呼び、遠巻きにしていた。

 妙に懐かしい気持ちになった。

 観客ネコたちを割って舞台に歩み出る有名女優ネコみたい。だからだろうか、思わず近寄ってしまう。

「神さま、少しお尋ねしたいのだけれど、いいかしら?」

 白ユキヒョウはこちらを向いて固まった。細かい感情は伝わってこないけれど、口が半開きになっているのは見てとれる。同時に、失ったはずの私の声がすんなり出てきたことに驚いた。

 私たちは少しのあいだ時を止め、その場に凍りついていた。

『……この姿を見て、言葉が通じないとは思わない?』

 冷たい声はひどく懐かしい部分をくすぐってくるのに、それがなにかを思い出させてはくれない。

「だって、神さまなら言葉くらい分かるでしょう?」

『……そもそも神と分かって喋りかけようと思うのが変なのよ』

 彼女は全身で呆れてみせて、それでも『あわあわの世界』ついて一通りのことを教えてくれた。

 芯。スラブとプルーム。賞の種類。星の芯。レースの意味。

 神の罪。嘆きの救済。理の重層循環。

 どうやら重要な立ち位置にいる方らしい。私は他の参加者よりも詳しくこの世界について知ってしまったため、いくつかの事柄はくちどめされた。言わなければいいのに、と思っていたら、太く長いしっぽで頬をつつかれた。

『あなた、叶えたい願いはあるの?』

 そう問われ、思い浮かぶ顔はあった。だけどその目をまともに見ていられない。想像のネコからさえ目をそらしてしまうのだからまったく心が弱っている。私はうつむきかけた。すると遠くから、こう聞こえた。

 ――見て。なんの形に見える?

 誰だろう。私にとって特別なネコの声なのは覚えていた。なんの形って? そう雲の話よね。まだリーディアに出会う前、土手から転げた私にあのネコが――。

 ――見て。なんの形に見える?

 再び聞こえたその声に、白ユキヒョウからの問いの答えを聞かされた気がした。

 深く息を吸いこみ身体に充満させる。それから、静寂にそっと音を差し込むように、声をだした。

「はい。また、前を向けるのなら」

 今度こそ。

 それが別れ際に彼女と交わした言葉だった。

『そう、しっかりね』

 リーア。

 え、と思ったとき、私の耳に別の方向から娘の名前が飛び込んできた。身体が2つに裂かれてしまう思いで振り返ると、茶色い少年ネコと目があう。聞き間違いかと思ったけれど、ゆっくりと顔をそらしていくその子ネコがやけに気になり、私は後を追うことにした。

 とってもいい子ネコたちだった。

 ただ話しているだけで、彼らの心がどういうものかありありと想像できた。初めて話したときはつい泣いてしまいそうになってすぐに別れてしまったけれど、一緒に食事をして、娘の話を聞いたときには本気の涙を堪えるのに苦労した。これほど演技を難しいと思ったことはない。

 ネコは環境に育てられるのだ。

 ネコ・グロテスクやネコソルジャー・デスたちに触れたとき、改めてそう感じた。

 彼らがもし、平和な時代、心を病む必要のなかった親たちに育てられていたなら、どんな成ネコになっていただろう。そう考えると責任の重さに潰されそうになる。

 私のしたことは罪だ。

 目の前で命を断ったのだから言い訳のしようもない。立ち直れたとしても深い傷が心に残っていることだろう。

 でも、茶色くんたちがいてくれる。

 この子たちの描く未来になら希望を抱いていける。

 きっといい世界よ。

 ならば、私のすべきこと!

◇◇◇

 私は子ネコたちを集めてぎゅっと抱き寄せた。

「え、リーディアさん……?」

 返事はしない。かわりに、頭をしっかりと、あの子の分まで撫でてやる。

 大丈夫、もう震えていないわ。

 心ゆくまで撫でたくり、名残惜しさが顔をだす前に背を向けた。そこへ、

「リ、リーディアさんにも、叶えたい願いがあるんでしょう!?」

 言葉にしてくれたのは茶色くんだ。返事はしない。「神に願わなくても私の願いはきっと叶うわ」と、言ってあげても良かったかもしれないけどね。

 私は『メカネコの壁』に意識を向けた。雲と大河、2匹の神様の権能で作り出し、私たちの周りを大きくリング状に取り囲んでいるメタル・カットスの壁だ。それを高く持ち上げる。すると金属の霧の向こうにそびえる超巨大スラブの岩山が姿をあらわし、

 “ここだ、ここまでの道を”

 と呼びかけてくる。その声に導かれるように私は歩みを進めた。と、

「……まさかここで終わるつもりなのか?」

 歩みを進める私のうしろ、護衛に付いてきてくれていたネコの1匹が隣の誰かに向かって小声でつぶやいた。すると、

「……先へは?」「進まないのか?」「ゴールしさえすればいいのに」「いやだぞ終わりなんて」「あと少しだろう」「でも救ってもらっておいて」「そうだ見捨てるなんて」「じゃあここで消えるのか?」「足掻いて逃げるべきなのか?」

 どうする、どうする、と戸惑いが連鎖していく。彼らにもあるのだ。叶えたい願いが。打ち払いたい嘆きが。それを無為にしろと言う資格は私にない。

 けれど、無為にならないとしたらどうだろう。

 繋がり、巡って、嘆きを“送る”のだとしたら?

 だとしたら、この暗く重たい金属の霧の中に光の束を注がなくてはならない。「ここを見るのよ」と指し示さなければ。今の私にはそのための武器があるでしょう。思い出しなさい。『彼女』の背中を。

 『彼ら』に、光を見せるの。

「“厄災よ、耳をすませて聴きなさい”」

 私は歩みを止めて、前を向いたまま彼らの心に語りかける。

「“高鳴りをやめないこの鼓動。これが生。生きる証の音なのよ”」

 声は高く伸びていく。

「“聴こえるわ。あなたにもあるのでしょう。生きる証が。耐え難い苦痛が。憎悪を振りまき続けなければ零してしまいそうなほど、わずかに残った願いの光が”」

 うめき声をあげる『ネコゾンビ』。号令を発する『ネコ救世軍』。猛る炎に身を焦がしながらネコたちを襲う『ネコミイラ』『黒外套』『トルドラード・ミーオ』たち。

 少なくない数のネコ・グロテスクたちの耳がこちらを向いた。

「この世界には罪がある。いくつかの幸せの下に埋め立てられた、蠢き彷徨う嘆きの数々。罪は厄災を孕ませ、嘆きは呪いを産んだ」

 ざわめきの中にひとつふたつと、浮かび上がってくる沈黙のかたまり。そうしてできた隙間にむけて思いのたけを声に乗せる。

「争いの遺物。社会の生み出した醜悪。今なお続く対立の具現。ネコの非道。残虐。裏切り。壊すことしかしてこなかったネコの歪みは、ついに神さえ滅ぼそうと企んだ。

 今、私たちの目の前にはその全てがある。

 こんなもの、いつまでも子ネコたちに見せていてはだめ。

 遺してはいけないわ。ここで終わらせるの。疑心も災禍も争いも。そこにあって、未だしぶとく呪いを振りまこうとしているのなら、引き受けるのは私たち成ネコのつとめでしょう? どうか目を逸らさないで。胸を張って! 道を作るのよ! 子ネコたちにあなたの背中を見せてあげて!!」

 その時、『熱光線』が放たれた。

 メカネコの壁を持ち上げていたのが仇になり、金属をも溶かしてしまうその光が放たれた。

『「――――――――――!!」』

 たくさんの声が私の名前を呼んだ。それを聞きながら、私は全身にその光を浴びた。

 熱い。滾る。

 皮膚を透かして身の内が沸騰していく。生々しい絶望がそこにはある。

 しかし私は、体から解き放たれる感覚を得ていた。

 ――自由に。好きな形になりなさい。

 誰かの声が聞こえた気がした。とても冷たく、けれど温かい。

 自由に?

 好きな形に?

 ほんとうにいいの?

 だとしたら私のなりたい形は――。

 私は、爆発的に膨れ上がった。

「な、なんだありぁぁぁあ↑!?」

 ――膨れ上がった私は味方のネコたちを包み込み、前足で地面をこすって、メタル・カットスたちを掃き散らす。

「か、神じゃねぇのかぁぁぁあ!? おい、キャティ!」

 ――鏡があるわけでもないのに自分の姿がわかる。いいえ、それどころかこの戦場のすべてが見渡せた。

「し、知らないよ! もしそうだったとしても生まれたての神さ、こっちにだって権能はあるんだ、いいからぶっ放しちまいな! メガロ・カットスからもありったけの光を――」

 そこへ。

『『『――――――――――!!』』』

 雲の神、大河の神、雨の神たちの長い咆哮。それはマタゴンズの混乱をかき消すだけでなく、

『『『――――――――――!!』』』

 メガロ・カットスに撃ち落とされ、あちこちに散らばっていた幾百の神々に顔を上げさせた。

『『『――――――――――!!』』』

 重なり、膨れ上がってゆく神々の咆哮。

『『『――――――――――!!』』』

 さらに、さらにさらに重なり、そして、

『―――――――――――――!!!』

 巨大な雲のウンピョウになった私は、彼らに合わせてひときわ大きく吠えあげた。

 ――私の演じてきたリーディアは未完成だった。

 厄災の脅威を目にしてなお立ち上がった勇気。誰であろうと受け止めた優しさ。しかし彼女のつよさの本質は、暗闇に突き落とされても、そこから這い上がったところにある。

 今、私は絶望から救われた。

 もう私に般ニャのお面は必要ない。

 もう彼女を羨む必要はない。

『さぁ、今度こそ本当のリーディアを』

 世界に幸せをまくために!

 巨大なウンピョウの右前足がネコ・グロテスクたちを統率するネコ救世軍を薙ぎ払い一斉に芯をとって泡にした。流れてくる数多の悲惨と残虐の記憶がネコだった私の意識を蝕み消していく。

 メガロ・カットスから放たれる光線。まとわりつくメタル・カットスたち。さらにはキャティたちからも権能を使った雷撃や暴風が放たれ、それらをすべて受けきって、子ネコのたちの歩める道を作っていく。

「う、うわああああ!」

 随分と情けない声が一つ、護衛ネコの中からあがった。

 でもそれでいいのよ。

 あなたの放った一声が、周りに火花し、やがては大きな炎となって雲を高く高く押し上げる上昇気流へと変えていくのだから。

『キャティ。あなたたちの企みはここで終わらせる』

 慌ててなにかの準備をしている長毛白猫を見据えながら、別の目で、弱った神たちを連れて戦いの場から離れていく子ネコたちの姿を見ていた。

 先へ進んで。願いを叶えて。そして、きっと。世界を。

『幸せになってね』

***

 ウンピョウの形をした大きな大きな雲が優しく広がっていく。

 激しい砲撃音。ひと際大きな歓声。何百匹という神ネコさまの咆哮。

 耳が向く。何かにしっぽをつかまれる。音の大きな方へと引っ張られそうになる。茶色いマイケルはそのたびに振り返りたくなった。だけど、

『まっすぐ、前を見て』

 つよく、優しい雲が背中を押した。

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