(73)あわあわの幕間:リーアの弱さ⑦ 私のリーディア

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 照明の絞られた舞台の上は、夜霧の荒野を思わせた。

 寒い。

 小ホールに空調機能はないのだけど。

 カルティアさんとアルド、2匹はそれぞれのやり方でリーディアの強さを見事に演じてみせた。次は私の番だ。私は、私の理想とする彼女のつよさを描いていく。その覚悟はできた。

 けれど、未だはっきりとそのつよさのカタチを捉えきれているわけではなかった。

 期待と恐れ。

 痺れに似た2つのものを抱えたまま私は、手元もおぼろげにしか見えない薄闇の中、呪われた土に手を入れ種を埋めていく――。

『おい、そこな襤褸(ぼろ)を纏った旅ネコよ』

 アレッシオ役の黒ネコが客席に向けて語りかける。声からは感情が見えてこない。彼はこのオーディションの間ずっとアレッシオを演じる代役ネコで、この無機質に一貫した演技は、解釈をしたカラバや演出家ネコたちの指示によるものだった。

 ――アレッシオ。

 それは“置き去りにされたネコたち”だ。

 長く長く続いた『ネコネコ大戦』の中で魂が枯れ、立ち止まり、絶望にうちひしがれるネコたちの心。その心を擬猫化した存在こそがこのアレッシオなのである。

『この大地はすでに死んでいる。呪いだ。呪いの砂時計はもう世界に終わりを告げている』

 心なくリーディアに言い放つ黒ネコの背後には、戦火に焼かれ、闇にさまよう何百何千何万の、虚ろな目をしたネコたちの暗い影がある。その彼、アレッシオ――『彼ら』がこう語りかけてくる。

『なぜ無駄と分かって種をまく』

 心を閉ざし光を探すことさえ忘れたアレッシオ。『彼ら』にはどんな世界が見えていたのだろうか。絶望した魂にはどんな言葉であれば届くのだろう。『彼ら』の奥底に流れる意思を、想いを、震わせて言葉を交わすためにリーディアとしてどう語りかけたらいいの?

 さあ演じなさい、私。

『無駄。無駄とおっしゃいましたか土地のお方』

 私は次のセリフまでの“間”を長めにとった。待つことで、その行間の奥から『彼ら』の“自問の声”をひっぱり上げる。

 “その通り。無駄だ。無駄ではないか……”

 と。けれどアレッシオの顔はまだ上がらない。種などまいても無駄なのだと諦めきっている。ならば。

『そう思われるのも無理はない』

 私は花弁のひらく動きで手首を返し、

『焦げた草原』

『爛(ただ)れた森林』

『陽の光も注がない空』

 ひとつひとつの景色に手を伸ばす。

『嘆きの景色は呪いの箱。私たちに出口はない』

 開いたその手を胸元へと招きいれていく。衣擦れの音がして、アレッシオの顔が少しだけ持ち上がる。

 振り返り、両手をそっと広げ、かすれた声でささやきかけた。瞳に湛えた涙には、散っていった無数のネコたちの想いを滾(たぎ)らせて。

『しかし、誰が無駄と決めるのでしょう』

 『彼ら』に声を届けられる者、それは苦しみを知る『彼ら』だけなのだ。同情の声ではどんなに高らかに叫んだとしても届きはしない。リーディアならば、嘆き苦しんだ『彼ら』と同じ目線で、『彼ら』の見ているものを真っ直ぐに見ることができるはず。

 そして、その上で、

『明日(あした)の陽光をこの夜に夢見ることを、誰が止められるというのでしょう』

 と、光を示す。

 暗い夜の中にも光はあるのだと、一瞬の、けれど焦がれてやまないわずかな光を『彼ら』の脳裏に描かせる。

 照明が刹那の瞬きをした。

 あるはずのない光を錯覚したアレッシオはそこでようやくハッと顔をあげるのだ。同じ絶望を知る者が語りかけてくる、ならば聞くべき言葉があるかもしれない。本当に、どこかにまだ、この闇を照らしてくれる光があるのかもしれないと。

 ――そうか。

 私は地に片膝をつき、祈りを捧げるように厄災との戦いを物語りながら、こう感じていた。

 リーディアは『彼ら』の心に寄り添うことで前を向かせたのだ。前を向かせて行き先を示した。

 ――彼女はずっとそれを続けてきたのよ。

 厄災との戦いの中、悲しみに暮れるネコたちに寄り添い「一緒に立ち上がりましょう」と手を取って先を示してきた。ちょうどアルドがそうしたように背中で語ってきたの。

 ――だけど、それだけじゃないはず。

 絶望したネコたちを率いて厄災と対峙する。賛同するネコが多かったとしても、それだけで世界を侵す厄災をどうにかできるとは思えない。じゃあどうやって彼女は厄災を討ち滅ぼすことができたのか。

 ――もっと他の……そう、厄災。

 場面は変わり、私はネコたちを奮起させ、厄災に立ち向かう。アルドはこのシーンで厄災を罵り怒りを激しく燃焼させた。それを熱として立ち向かった。しかし私は――。

『何という、悪虐』

 消えてしまいそうなくらい細い声で言う。聞いているネコたちの耳の動きのほうが大きく聞こえるほど、声は小さい。小さくて悲しい。

 ――悪虐とは、“厄災”とはいったい何?

 “リーディア”という存在は、大戦を経て立ち直った猫種そのものの顕れである。同じように“アレッシオ”は絶望したネコたちの象徴だ。であるのなら、“厄災”とは一体何を表現したものなのだろう。

 答えはリーディアが言っている。

『いまだ厄災は悲しみと苦痛という両の翼を羽ばたかせ、風に乗った砂塵のように猫々の内に忍び込んでいる。擦り切れる痛み。柔らかな心は悲鳴をあげて、嘆きの渦に堕ちていく』

 悲しみと苦痛とでできた翼、それは戦火だ。拡大する犠牲と燃え広がる炎とを、風を巻き起こす羽ばたきに喩えている。

 その翼を使ってネコたちに近づき、身体の中に忍び込んでくるもの。つまり、戦火がネコたちの心に産みつける感情。

 “厄災”とは何か。

 怨みだ。

 擦り切れるほどに心を掻きむしる痛みがあり、思いやりに悲鳴をあげさせて、さらには殺し合いという嘆きの連鎖を引き起こす。怨み。

 “怒り”と、大きく捉えてもいいだろう。始まりはそうだった。財産に逃げられた怒り。裏切られた怒り。殺し殺された怒り。

 だけど――。

 怒りとは仮初(かりそめ)の姿だろう。覆いかぶさる衣にすぎない。怒りの根底にあるものは、大切なものを失った悲しみなのだ。耐え難い無力感。絶望と闇。

 つまり、厄災とは怨みであり、怒りであり、その実態は悲しみなのだ。

 ――悲しみ。

 リーディアは悲しみを知っている。母ネコを、父ネコを喪い、激しい怒りお覚えてなお、誰も傷つけず悲しみに向き合った彼女なら――。

『厄災よ、耳をすませて聴きなさい。高鳴りをやめないこの鼓動。これが生。生きる証の音なの』

 私は、厄災を前にして立ち止まり、無防備にも胸に手をあて目をつむった。

『聴こえるわ。あなたにもあるのでしょう、生きる証が。耐え難い苦痛が。憎悪を振りまき続けなければ零してしまいそうなほど、わずかに残った願いの光が』

 きっと、リーディアは厄災に剣を向けはしなかった。

 満たされない何かを求めて世界を害し続ける厄災。彼女は厄災の本当の姿を見極め、そこに寄り添った。悲しみを悲しみで受け止めた。目を背けなかった。自分を苦しめた厄災のために、熱い涙をきらめかせた。

 追い求めていたつよさ。雲に描いた優しい背中。

 ――これが私のリーディア。

 剣ではなく優しさをもって対峙し、味方と敵との境界をそっと取り除く。そこから溢れ広がる優しさは乾いた大地に喜びをもたらす慈雨のように、分け隔てることなく、ささくれだった心にしみていく。
 
 ――厄災はやがて、満たされ、存在を薄めていった。

 しかし厄災の姿が消えてしまうその間際。その手に抱えきれなかった呪いが大地に落ちてしまう。呪い。悲しみの残滓。遺されたネコたちを闇に閉じ込めてしまう、嘆きの景色。

 満たされて、消えゆく厄災はどんな想いに駆られただろう。

 自らが遺す、さらなる悲劇を前にして、満たされた厄災は何を想うのか。

 だから――。

 その姿を見てリーディアは言うのだ。

『ならば私が種をまきましょう』

 安心して昇りなさいと。

 私は、心を込めてそうつぶやいた。

 そして彼女は種をまく。馬鹿にされても、石を投げつけられても丁寧に丁寧に小石を取り除いて種に土をかぶせていった。その命が尽きてなくなるまでずっとずっと――。

 すると。

『私にもできるだろうか』

 アレッシオの口からすっと、その言葉が零れてきた。

 演じた黒ネコは頬を濡らしてうつむきながら、倒れた私のすぐそばで種に土をかぶせていた。

 そんなセリフも演技も、台本には載っていない。彼は演出家ネコたちの指示を忘れ、物語の流れにその身を委ねた。身体の、心の動くがままに。文句を言う者は誰一匹としていない。

 幕は、音を立てずに降りていった。

◆◆◆

 その後の猫生はリーディアに向かって生きてきた。

 追いかけて追いかけて、捕まえたと思ったら雲のようにすり抜けて消えてしまう私の理想像。何度も悔しい想いをしているうちにいつしか私はどうしようもない妬ましさを抱いていた。リーディア。初めて妬ましいとおもった女性ネコ。以来私は心に般ニャ面をかぶって生きてきた。

 素晴らしい日々を!

 仲間ネコたちと共に磨いてきた心と技で、観客ネコたちと舞台の上で繋がり、物語と繋がった。一線を退いても気にかけてくれる先輩ネコがいた。どんなときでも声を弾ませて支えてくれたグリューズとカラバがいた。

 そしてアルド。

 普段の彼からは想像もつかないくらい、ぎこちない告白をされた瞬間に、いつの間にか私も惹かれてしまっていたんだなぁ、と気づいた。それもいい思い出だ。

 そうして私は大切な赤子ネコを授かった。

 幸せだった。

 本当に、心の底から幸せだった。

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