(42)6-12:教科書はもう開いたかしら?

***

 追体験。

 それはこの場合、ネコ・グロテスクの味わった苦痛の日々を、そっくりそのまま、わずかな時間のうちに経験させられることを意味するのだとか。

「あのネコたちの経験、それも苦痛だけを切り取ったとびきり濃い経験よ? それはもう”残虐”よ。残虐そのものでしかないわ!」

 その声の通りなら、リーディアさんは外套越しにも分かるくらい怒りに震えている。キャティはそれをあざ笑うように、

「だけどそれが真実さ」

 と言った。

「その記憶以上に、ネコ・グロテスクについて詳しいものはない。しかも正確だ」

 キッと鬼ネコ面がにらむ。だけど、

「それとも事実をまげて、受け取りやすいキレイなコトバで教えるつもりかい?」

 と顔を凄ませ、

「それは”嘘”だろぉ!」

 その言葉が憎くて憎くて仕方ないという声で、噛みつくように怒鳴った。

「それはねぇ、アンタの甘ったるぅい正義感に浸された、シロップまみれの”嘘”でしかないんだよぉ!」

 キャティの長毛がぶわっと逆立つ。まるで白いライオンだ。茶色いマイケルは「ひっ」と首をすくめたけれどリーディアさんは一歩も引かずに、

「そうね。私がネコ・グロテスクについて話そうと思っても、きっと抽象的で柔らかくした表現になるわ。それを恣意的だと言われればそうだし、嘘と言われても全部を否定することは難しいでしょう」

 でもね、と陽射しのような強さで子ネコたちに語りかける。

「真実だって使いようなの。10の真実を並べても、一つの真実を隠しているだけで、文脈はまるきり変わってしまう。キャティのしていることはそういう事よ。『ネコ・グロテスクについて知りたい』という気持ちに対し『では芯をとってみなさい』と”真実”を与えようとはする。けれど、”その真実”を知ったらどうなるのかは教えない。その、”もう一方の真実”を教えようとしていないの。これは悪意としか言いようがないものでしょう!」

「まるでアタシが悪者みたいな言い草だねぇ」

 キャティは眼鏡の奥にニタニタと笑みを浮かべて余裕を見せてはいるけれど、組んだ腕の上では猫差し指がトントントントン忙しなく毛を叩いていた。

『どー見てもあいつのほーがワルモノだろー。声とかよー』

「ちょっ、あふふっ、風ネコさまウケるんですけどぉ」

 果実のマイケルと風ネコさまの、空気を読まないやり取りが耳に飛び込んできて、茶色いマイケルがちらりと路地の出口あたりを見た時だった。目を疑った。少し離れたところにシルクハットの紳士ネコ、マルティンさんがいたんだ。ううん、それはいいんだけど、マルティンさんがバタバタと激しい動きでこっちに走って来てた。

「あやつ、あんなっ……!」

 茶色いマイケルの驚きを見たのか、灼熱のマイケル、キャティ、リーディアさん、虚空のマイケル、それから果実のマイケルと風ネコさまも、次々とそちらを見たよ。

「バカだねぇ。止まっていればいいものを……」

 キャティが舌打ちするのも無理はない。なにせ、

『『『ニ”ャアアアアアア』』』

 と絶叫し、手足をバタつかせながら走る『アイヨロスのネコ』を引き連れて走って来てたんだ!

「さ、3匹もいるんだけどぉ!?」

「マズイな。あのまま来られるといい加減ネコ・グロテスクたちに気付かれるのではないか?」

 視線がキャティへと集まる。

「面倒ごとになる前にさっさと片付けておきたいねぇ。おいメス。アンタまさか『実はわたしも怖くて触れないのぉ』なんて言うんじゃないだろうねぇ?」

 するとリーディアさんは「その呼び方止めて。あと、似てないモノマネするのも」とキャティに言ってから、またあの”歩いているのに歩いているように見えない歩法”を使ってマルティンさんたちの方へと進んだよ。ただ、

「聞いて、茶色くんたち」

 と進みながらも話の続きをするらしい。リーディアさんは平然と、

「ネコ・グロテスクに触れて芯をとると言う事、それはあのネコたちの気持ちを分かってあげるためには必要なことかもしれないわ。とっても価値のあることよ。きっとアナタたちの持つ優しさをもっと深いものにしてくれる」

 と語ってくる。どんどん迫るアイヨロスのネコの姿に、「話はあとでいいから……!」と内心焦る茶色いマイケル。だけど、たっぷりと余裕のある声のせいか、聞き入ってしまうんだ。「だけどね」と美しい後ろ姿は言う。

「だけど耐えられることが前提なの。その記憶に触れて、耐えられる精神力が必要なのよ。刺激って大事だけど、強過ぎる刺激は精神を蝕むわ。あの記憶は”残虐”そのもの。むき出しの残虐に触れて正気でられるほど、アナタたちはまだ準備が出来ていない。だからね」

「た、たすけっ……!」

 命からがら走ってきたマルティンさんは、目の前に急に表れたように見えたのだろうリーディアさんに、しがみつこうと手を伸ばした。けれど、スッと避けられてしまう。「えっ!?」と驚く紳士ネコはそのまま崩れて2回前転して止まった。

「だからいずれ立ち向うにしても『準備』が必要なの」

 真っ赤に熱せられた金属を着せられ、もがくように手を伸ばす3匹のアイヨロスのネコ。焼けただれて肉の見えているその手が、鬼ネコ面を絡めとろうとしたその時。

 リーディアさんが、茶色いマイケルたちの方を振り向いた。

『『『ニ”ャアアアアアア』』』

 あぶない……!

 という声は口から出る前にのどの奥へとひっこんでしまった。それはさっきも見た光景だったんだけど、果実のマイケルがそうした時とは比べ物にならないほど素早くて、まるでネコ手品だったよ。リーディアさんの後ろでアイヨロスのネコが3匹とも、瞬時に泡になって消えてしまったんだ……!

 地面に尻もちをついたまま、マルティンさんが「え? え?」と消えていく泡を見ている。「チッ」と舌打ちしたのはキャティだろう。それを聞いて茶色いマイケルの口がようやく開いた。

「へ、平気なの……?」

 ネコ・グロテスクの”芯をとった”のだろうということは分かる。だけど果実のマイケルがあれだけゲロゲロ吐いていたのを見ていた茶色いマイケルは、平然と立っている鬼ネコの面の中の表情が気になって仕方が無かったんだ。

 するとリーディアさんは地味な土色の外套をひらりと揺らし、まるで騎士ネコがそうするような軽やかさで「この通り」と恭しくお辞儀をしてみせたよ。場所が場所なら拍手をしていたかもしれない。茶色いマイケルの口は、

「……準備って、何をすればいいのかな?」

 と、勝手にそう質問していた。

「学べばいいのよ。私がこうして平気でいられるのは、一度学んだことだから」

 座学だけどね、と付け足す。

「いきなり芯をとって、ネコ・グロテスクたちを泡にしてあげようなんて考えなくてもいいの。それはあなたたちの役目じゃない。段階を踏んで、学んでいくこと。本当は黒い靄に触れることだってまだ早いんだから。ネコ・グロテスクたちのことを思うのなら、概要だけでもいい、まずは歴史を学んであげて。1匹1匹の気持ちを考えるのはそれからにしておきなさい」

 それからリーディアさんは雰囲気をがらっと変えて、

「教科書はもう、開いたかしら? 子ネコ諸君!」

 とお面の裏でぺろっと舌でもだしたような声で首を傾げたよ。

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