(37)あわあわの幕間3:輝く白毛の民 ケマール① 幸い

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 帝国が大々的に『輝く白毛の民』を自国のモノであると喧伝し始めたのは、ケマールの齢が10を数える前のことであった。

 ほどなくしてケマールは捕らえられ、飼い主の元で教育(シツケ)を施される。

 教育とは、それまでに培ってきた価値観を徹底的に粉砕され、『帝国の所有物』としての自覚を擦り込ませる工程だ。

 価値観の固まったネコでは矯正が難しいため、大抵の成ネコは『奉納』が済み次第処分される。子ネコの年齢に達していたケマールは処分こそされなかったものの、教育にはずいぶん手間と時間がかかった。

 顔や耳を刻まれ、片目を潰され、肌を焼かれるなど、『価値』とは関係のない部分を、元がどうだったのかわからなくなるほど痛めつけられ、精神的にも責め抜かれた。親や兄弟姉妹の記憶は欠片も残っていない。そういう猫格に関わる記憶からしらみつぶしに消されていったのだ。

 彼の中には唯一、ボーガンの思い出だけが頭の奥の真ん中に残っている。

 ――下生えの草に四苦八苦しながら分け入った森の中。目の前に差し出される滑らかに磨かれた美しいボーガン。手にするとずっしりと重たく、身体がよろけてしまう。

 使い方を教わっていたのだろう、背中に温かみを感じながら、揺れる照準を合わせていると、その先には無邪気に草を食む茶色い鹿の姿があって――

 たったそれだけの記憶だ。獲物を仕留められたのか、矢を放つことができたのかさえ思い出せはしない。

 しかしその塗り残しのような記憶が、巡り巡って後のケマールの決断を、いや、帝国の行く末さえ大きく左右することになるとは、この時は誰も思っていなかった。

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 輝く白毛の民とは厄災を招く民なのだと、飼い主である『タプファラハト』は、何度もケマールに言い聞かせていた。

「お前たちがいたことで、どれだけ無辜の民ネコが争ってきたかわかるか? 帝国が戦いを起こしてまで他国を取り込んでいるのは、すべてお前たち輝く白毛の民を巡る争いを終わらせるためなのだ。世界を一つにし、皆でお前たちを所有することとなれば争いは起こらず、さらに、輝く白毛の民の平穏までが約束される。それが『偉大なる我が祖国、サンド・アグリッシア大帝国』の崇高なるご意思なのだ」

 感謝しなければならない、と一日の終わりを必ずそう締めくくった。まだ反抗的だったケマールも、厳しい責苦から開放されるこの時ばかりは、

「帝国の神よ。幸いを与えていただき感謝しております」

 と心から唱えたものだ。

 それが悪辣な洗脳のいち手順だと知らない子ネコ。まんまとタプファラハトの思惑の通り、帝国の“素晴らしさ”を学び、輝く白毛の民の立場を“正しく”捉え、『価値』というものを“正確に”量ることの出来る“立派な”ネコになっていった。

 こうしたすり込み学習を終えたのは青年ネコに手が届こうかという年齢だった。教育を終えた輝く白毛の民は法官区へと移される。

法官区というのは帝国の管理区分の一つで、首都であるカオテムの端に存在し、直轄管理されていながらも、自治権の与えられた特別な地域のことだ。その名の通り、ここを収めるのは法官と呼ばれる帝国の役猫で、ケマールが連れてこられた時の法官は、新任であり元飼い主である、タプファラハトであった。

「ケマール、ここがお前の新たな故郷だ。誰からも命を狙われることなく安全に、ただただ平穏な毎日を約束されたお前の故郷。しかしその裏では今も、『我が偉大なる祖国、サンド・アグリッシア大帝国』の兵ネコたちが戦っているということを忘れてはならない」

 この新たな故郷において、ケマールに与えられた義務は日々の糧を自分たちで捕り、そのうちの3分の2を法官へ上納することにあった。

 この3分の2というのが多いか少ないかは、すでに上納生活をしている他ネコたちのの体つきを見ればわかる。どのネコも引き締まり、しかし頑健であることを忘れていない。元々狩猟生活をしていたことはすでに忘れていたのだが。

 中でもケマールは狩り上手だった。森とは全く縁のない、ひび割れた砂漠にすぐさま適応し、作物でも収穫するように獲物を捕えて持ち帰った。これはタプファラハトも予想外だったらしく、

「お前はここにいる輝く白毛の民たちをまとめ上げる立場になるだろう。そのときは共に帝国を支える力となって欲しい」

 と、飼い主と飼いネコという立場ではなく、法官とここに住まう1匹の有望なネコとして、今までとは違う期待をかけた。

 俺が『我が偉大なる祖国、サンド・アグリッシア大帝国』を支える力に……?

 純朴な青年ネコのことだ、熱のこもった手で肩を叩かれれば発奮もするというもの。ケマールはタプファラハトから大いに信頼され、期待以上の働きをするネコとして扱われた。

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 たくましく成長したケマールは、成ネコの儀式で右手首から先を切り落として『奉納品』とした。

 奉納とは、輝く白毛の民のための儀式である。

 古より、白毛は厄災を招くと伝えられてきた。それを体から切り離し、帝国が然るべき処置を施すことにより、民ネコたちは安寧を得ることができるのだという。それがネコ呪術的な建前だ。この大義名分を押し通すことで帝国は、白く美しい『価値ある部分』を自ら差し出させていた。

 もちろん、従順になったケマールに裏の声など聞こえてはこない。頭にあったのは、奉納を終えれば晴れて帝国民ネコとして扱われるという名誉のことだけである。

 奉納を終え、役付ネコとなり、まとめ役ネコにまで抜擢されたケマールは、上納品集めから『奉納官』の役まで滞りなくこなし、その報酬として女性ネコのいる区画から、妻ネコを娶ることを許された。奉納を終えたばかりの、左足の無い妻ネコである。

 ケマールはこの妻ネコを心から愛した。

 歩けない妻に代わって、今までの2倍も3倍も獲物を持ち帰ってくる毎日。食べきれないからと隣近所に配っているうちにその周囲はいつも笑顔で溢れていた。

 まもなく妻ネコは子を成し、息子ネコは健康にも恵まれすくすくと成長していく。『価値ある白毛』に関しても問題はなかった。息子の白毛は薄いが数はあったため、奉納には十分。平凡な生活を送ることが出来そうだと、ケマールたちは幸せそうな赤子ネコの笑顔を見るたびに、目配せして微笑んだ。

 短い寿命の民ネコである。目の前のことに集中し、有意義に生きることこそが至上だと信じた。

「帝国の神よ。幸いを与えていただき感謝しております」

 3匹の親子は1日の終わりに必ず、跪いて祈りを捧げた。

 どうかこの幸いが、末永く続きますように。

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