(26)あわあわの幕間2:大戦の残火 殺猫鬼ムル② ピサト

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 『ピサト』に与えられる仕事には、『個別消毒』と『一斉消毒』とがある。

 個別消毒とは、軍部にとって邪魔な『ばい菌』を1匹ずつ消し去ることで、これはピサト数名を集めたチーム単位で行う。

 一方、一斉消毒というのは、『ムル』たちの待ち焦がれる”鎧”に乗っての大規模殲滅戦だ。これまでにも幾度か行われ、その度に多大な成果を上げているという話を、ムルはウーラ院長ネコから聞いていた。

 ムルは何度となく夢を見た。

 大群が荒野を、市街地を、ばい菌の巣窟を、ひたすら蹂躙しながら均していく姿を。はびこるばい菌たちを柔らかなミンチ肉にしながら進む鎧の頼もしい姿を。その中で恍惚の表情を浮かべる自分の姿を。

(いったいどんな幸せなんだろう……)

 ただし、それを実現させるためには地味で苦しい訓練をしなければならない。

 爪の研ぎ方や身体への意識の向け方にはじまり、集団ネコ戦闘での立ち回りや相手を油断させるための仕草なども叩きこまれた。痛いことは多いし、苦しいことが続くこともある。いくら”ごほうび”のために頑張れると言っても、それらが消えてなくなるわけではないのだ。

 時にはごほうびを拒否したくなるほどつらいこともあった。けれどもそんな時、ウーラ院長ネコはいつもこんな風に話していた。

「つらいことから逃げ出したくなるという気持ちは誰にでもある。それは弱さではるけれど悪ではない。どうしても乗り越えられないことならばもっと簡単な一歩から始めていこう。今までやってきたことの繰り返しだっていい。それでも少しずつは進んでいるんだからね。そうしているうちにきっと道は見えてくるはずだから。

 そうだよ、君たちは存在するだけで素晴らしいんだ。それだけで十分以上に価値がある。これを忘れないでおきなさい。出来ることをやればいい。それは無駄にはならない。どんなものにも使い道はあるのだから。

 でもね、ムル。

 その使い道を考えもせずに、『使えない!』と嘆いてはいけない。使えないから見捨てる、使えないから切り捨てる、使えないから壊してしまう。そういうものは憎むべき悪だ。無駄遣いは悪!! 悪! 悪! 悪! ばい菌だ!!」

 この話はいつもムルの心を奮い立たせてくれた。

(出来ることをやって、少しずつでも進んで行けばぼくだって……!)

 そうして自分の出来ることをコツコツ続けていると、意外なところで役に立つことがある。ムルの場合、それは解体だった。肉への執念が強かったからかもしれない。初めて牛刀を持って肉をさばいた時にはもう、どこにどう刃を入れれば美しく切れるのかが手に取るように分かっていたのだ。

 これを院長ネコは大いに喜び、訓練段階でありながらチームの一員に招集、解体の仕事に従事させた。ムルはどんなに筋張った”皮の無い枝肉”でも見事にさばいてみせ、先輩のピサトたちからも頼りにされる存在となった。

 裏方とはいえ、現場に身を置いていると訓練での動きも変わってくる。

 いわゆる”勘所をつかんだ”状態だ。先輩たちから聞いた実践の話を元に個別消毒の相手を想定し、頭の中でイメージしてから身体を動かしてみる。すぐに動くことは稀だ。だから思い通りに動かなければ動くまで繰り返す。そういうことを訓練時間以外にも進んでするようになった。

 それから一年。

 ムルは訓練生卒業試験を難なく突破し、正式なピサトとして仕事を始めた。

 初任務の日、落ち着かない新米ピサトたちを激励しに来たウーラ院長ネコは、

「これを君たちに送ろう」

 と言って、笑った鬼ネコの面を贈った。

「ばい菌というのはどこにでも蔓延っていてね、少し油断すればすぐ心を蝕んでくる。だけど君たちはピサト、消毒をする側の高潔なネコだ。決して侵されてはならない立場である。それはもう何度も教えて来たね。

 ただそれでも、ばい菌が脅威であることに変わりはない。だからばい菌を前にしたならば、このお面をつけなさい。この笑顔の面を。

 笑顔にはね、免疫力を高めるという効果があるんだ。つまりこの面をかぶった瞬間、君たちはばい菌に対する強力な力を得ることになる。凄まじいまでの勇気が湧いてきて、消毒を実行することができるだろう」

 院長ネコの言葉は、素直に育ったピサトたちにてきめんだった。

 ばい菌の資料を見た時は(これはネコじゃないか)という疑問が湧いたものの、お面をつけた瞬間に(確かにこれはばい菌だ)と、感じたことのない熱で身体がたぎったのだ。そして湧いてくる滅菌衝動のままに消毒を行った。

 動くものの解体は少し難しかったけれど、同じチームのピサトがひきつける役を買って出たため、危なげなく消毒することが出来た。その時にあらためて、

(このピサトも出来ることをがんばってきたんだなぁ)

 と院長ネコの言葉を思い出しながら感心した。

 こうして仕事をこなすようになったムルたち新米ピサト。ほぼ毎日、休みなく個別消毒を続けていたある日、先輩ネコが1匹、仕事中に死んでしまった。

 ムルたち一同は大食堂に集められ、棺に入れられた先輩ネコの前で泣き崩れているウーラ院長ネコの姿を目にした。誰はばかることなく大泣きし、死体に顔を擦りつけ、やがて地面に頭を打ちつけて血が噴き出したところでセンセイたち数匹に止められていた。

 その姿を見て涙しないピサトはいなかった。

(こんなにも院長ネコは……!)

 それから「すまない、取り乱した」と言って立ち上がった院長ネコは、棺に”笑った鬼ネコ面”を入れて、震えるこぶしを固く握った。

「今回のばい菌は『大規模滅菌消毒』が必要のようだ」

 それはばい菌単体だけでなく、その周囲もばい菌に侵されているということを意味していた。

「免疫力をさらに高めるため、十分な食事をとってから取り掛かる。ムル。私と一緒にきてくれるかね」

 ムルは「は、い」と出ない声を振り絞って返事した。向かったのは調理室。そこでしばらく待っていると、センセイたちが棺ごと先輩ネコを運んできた。

「ムル。この憐れなピサトを君の手で”力”にしてくれ。みんなに分け与える”力”に……!」

 院長ネコに握られた手は燃えるように熱く、ムルはそれがとても神聖な行為のように思えて、牛刀を振るった。

「こうして我々の口に入ることで命が無駄になることは防がれる。しかし……しかし! あまりにも早い! まだまだ生きて命を使いつくすことが出来たはずなのに……! ううっ」

 嘆き悲しむ院長ネコの声を背中に聞きながら、ムルは先輩ネコを、あの、大好きなミンチ肉へと変えた。骨も細かく砕き、余すことなく練り込んだそれを、最後に院長ネコはみずから、たっぷりの香辛料で味付けした。

***

 大規模滅菌消毒は苛烈に行われた。

 その中にはまったくもって無関係なネコたちもいたのだが、ムルたちピサトの目にはもう繁殖したばい菌としか映ってはおらず、一切のためらいもなく消毒される。

 院長ネコはその成果に大変満足したという顔で、

「やはりこの仕事は清々しい」

 と言い、あのお面のように笑っていた。

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