(24)5-10:氷の朝

***

 その時何が起こったのか、茶色いマイケルには見えなかった。

 『殺猫鬼』が、横たわっている灼熱のマイケルに向けて飛びかかり、刃物で真上から刺し殺そうとしたところまでは見えたんだ。だけど、2匹のあいだの空間が一瞬歪んで見えて、それから先がきれいさっぱり消えている。

 3秒くらい目をつむっていたような光景だった。

 灼熱のマイケルと果実のマイケルに動きは無く、ただ殺猫鬼だけが一瞬で虚空のマイケルの隣にまで行き、びたーっと地面にへばりついていたよ。

「え、何を……」

 と、思考を止めかけた茶色いマイケルの声を追い抜いて、

「行けるか果実!?」

 と虚空のマイケルがすばやく脱出に切り替える。果実のマイケルはハエタタキで頬をはたかれたように振り返って、

「行けるぅ! 乗ってぇ!」

 ブルンと顔を震わせた。

「に、ぐぅ……」

 わずかに顔を持ち上げて呻く殺猫鬼にはそれ以上動く力は無いようだ。それでも茶色いマイケルは目を離さないよう気をつけながら、大きく回りこんでスラブに飛び乗った。

「よし出発してくれ! できればプルームも!」

「オッケぇー! むしろプルームから行っちゃってぇ!」

 果実のマイケルが「んっ」と力を込めて押しやると殺猫鬼の乗っているプルームが動き出す。水面に浮かべた笹舟みたいに軽やかだけど、なかなか速度は上がらず茶色いマイケルはやきもきしたよ。

「こっちもぉ……! いっくからねぇ!」

 苦しそうな声だ。きっとあの”ドロドロ”の流れ込んでくる感覚を一身に浴びているんだろう。もっと応援してあげたいけれど、残念ながらそれどころじゃなくなった。起き上がったんだ、殺猫鬼が!

「大丈夫ぅ!? あいつ来てなぁいぃ!?」

 果実のマイケルからは見えない位置にいる。

「大丈夫だ、果実。うつ伏せに倒れたままだ」

 虚空のマイケルを見れば(言うなよ!)と大きく開いた目で訴えてくる。充血こわっ。だけどそれよりも怖いのは離れていくプルームの方だ。殺猫鬼がふらふらと起き上がり……背中を向けて歩いて行く……?

 その奇妙な行動の意味はすぐに分かった。

 んぎゃあああ

 殺猫鬼は、”ネコが本気で喧嘩するときの声”を出して身を屈め、おもいっきり猫背になって茶色いマイケルたちの方を睨んだ。

「な、なんだよぉあの声ぇ!? 起きたのぉ!?」

 果実のマイケルはまだ振り返っていない。

「心配するな、仰向けになって悔し紛れに叫んでいるだけだ」

「そ、そぅなんだぁ……オイラてっきり」

「安心しろ。助走をつけてこちらへ飛んでくるような動きは一切見せていない」

「な、なんか具体的すぎないぃ……!? ホントに大丈夫ぅ?」

「大丈夫だよ果実、大丈夫大丈夫……大丈夫?」

「何で疑問形なんだよぉ!?」

「「――あっ」」

「『あっ』!? 『あっ』って何ぃ!? ねぇ茶色ぉ! 何が起こってんのぉ!?」

 ふぎゃるるるぁああ

 殺猫鬼がプルームの端から端までを使い、助走をつけてその突端から勢いよく飛んだ! 突端の縁を思い切り蹴り飛ばし、身体を一本の矢のようにまっすぐに伸ばして飛んでくる!

「果実! 飛ばして飛ばして思いっきり飛ばしてぇぇ!!」

「や、やっぱり来てるんじゃないかあぁぁ!!」

「心配するな! ここまでは届かん! 届くはずがない! よなっ!?」

「知らないってばぁあ!!」

 正直なところ、乗り込まれると思った。

 というかほとんど乗り込まれたようなものだったんだ。

 刃物がスラブの最後尾に突き刺さり、ギンッと固い音を立てた時にはおしりの穴がきゅっと締まった。しがみつく殺猫鬼の”笑ったお面”を見た時にはぶくぶくと泡を吹き出しそうになったよ。風ネコさまはいつもの調子で、

『これがネコの武器かー。あぶなそーだなー』

 と刃物を手でチョチョイと触って遊んでいるだけだし、もう神さまなんていないって思ったね。だけど、

「あ、あれぇ?」

 と、殺猫鬼がいきなり、ぽかんとした声を出して「うう……」と唸りだしたんだ。苦しそうというわけではなく、息を吐いていたらつい声が漏れたというふうで、見ればその身体には霜がついている。足の先、しっぽの先からだんだんと白く覆われているところだった。それが頭の方まで登ってくると、包丁の柄をつかむ手がゆっくりと開いていった。

 もちろんその様子に驚きはした。けれど、茶色いマイケルは別のものに目を奪われてしまってた。向こう側、薄ぼんやりと青くあった暗がりの世界が、だんだんだんだん白みはじめていたんだ。まるで夜が明けていくように、明るくてとても冷たい色が広がっていった。

 ああ。

 手を伸ばせばきっと子ネコたちだって凍らされてしまうのだろう。そういう恐ろしいものだっていうのは見ていればわかったよ。けれど、その時はすごく神々しくて、夜明けが来たようにしか見えなくて、ただただ見惚れているしかできなかったんだ。

 氷の朝。

 その明るみの中に今、殺猫鬼が落ちて行く。

 助けを求めるように伸ばした両手の、その指の先までが霜に覆われ、もう、ピクリとも動いていない。ただ顔色の悪い鬼ネコ面だけが楽しそうに、子ネコたちに笑顔を向けていた。

 茶色いマイケルはふと、そのお面の下にはどんな顔があったんだろうと思った。

 『頑張ったのに』『一生懸命やったのに』と訴えていた鬼ネコ面。

 『それしか出来ることがなかったんだ』と言っていた、殺猫鬼。

 よくわかんないネコだったけどさ、あのネコは最初から鬼ネコだったのかな。そんなネコがいるのかな。そのお面は、誰かから被せられたものなんじゃないのかな、って思っちゃう。

 ネコは、笑顔のお面をかぶったまま、やがてびっしりと霜で覆われ、それから真っ白い粉になって冷たい世界に散っていった。

 ほのかに輝く泡と、黒ずんだ靄が少し残った。

***

『最後のチームがただいま到着いたしました。チームマイケル、お疲れ様です。この中継地点ではネコたちの精神衛生上の理由から、一晩お休みいただくこととなっております。なお、エリア内での交戦は禁止されておりますので、くれぐれもご注意ください』

 やけに陰気な町だと思ったよ。

 木造の建物はどれも渇いた色をしているのに、空気はじめじめ。煙突が煙を吐いているわけでもないのに、黒い靄があちこちにふよふよと浮かんでいる。スノウ・ハットの『迷路街』に2年くらい雨を降らせ続けたような、そんな町。

 さらに、湿った雰囲気を助長するように、参加者ネコたちからじっとりとした視線を向けられる。

 その中には、神ネコさまたちのものまで、混じっていた。

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