(148)いつかどこかのお茶会で。

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 大切ななにかを失うと、それを取り戻せと心が意識に働きかける。

 だけど、もう取り戻せはしないんだと悟ったとき、心のひびは身体を伝って、意識を蝕んでいく。静かに喪われてゆく。

 誰かを大事に思うネコは、誰かに大事にされるネコでもあるはずだ。

 だとしたら、1匹の身に訪れる静かな喪失は、周りのネコへと渦を巻くように広がっていき、やがては世界を暗い水の底へと引きずり込むだろう。

 ボクたちのたどり着いた場所はそういうところだった。もがいてももがいても抜け出せない、水底のような場所。

 いつも何かが足りなかったんだ。

 抜け出すには、いちばん初めに失われたものを取り戻すしかなかった。それはボクが生まれる前の話で――。

『なー茶色ー、これの続きってもう書かねーのかー?』

 時別れの書斎の中で、大銀河を器に透かした風ネコさまが尋ねてきた。その足元にあるのは『くらぁい くらぁい おおきな もり』の絵本。最後のページが開かれている。

 ボクは書きかけの原稿から氷の色をしたガラスペンを持ち上げて、椅子ごとうしろに向き直った。

『その4匹がどうなったかは、風ネコさま、知ってるじゃない』

 かたわらに寝そべったマークィーによりかかった風ネコさまは、1枚ページをめくり戻して、

『でもよー、知らないネコは怖いままだぞー』

 紙幅いっぱいに描かれたフクロウたちの目をしっぽでなぞった。

『いいんだよ。子ネコを怖がらせるための絵本なんだから』

『イジワルだなー』

『だってさ、“4匹は夢中で遊んでいました”“最後は家に帰って幸せに暮らしました”なんて書いたら、子ネコたち、大森林になだれ込んで来ちゃうよ?』

 やかましそーだなー、と風ネコさまは肉球を舐めはじめた。そこにコンコンとノックが2回鳴り響く。

『そろそろはじめるよ』

 板チョコみたいな扉が開くとその向こうでは、やわらかな緑色の光が集まってゆらゆらと揺れていた。オーロラネコさまだ。

『うん、今行くね』

『えー。もーちょっとゴロゴロしててーんだけどなー』

『早くしなさい』

 ピシリ、と飛び込んできたのはオーロラネコさまの声じゃない。ボクたちは慌てて書斎を飛び出した。

 丸いテーブルは6匹掛け。

 白ネコ女優姿の女神さまは、ティーカップにお湯を注ぎながら、向かいに座ったボクに刺すような目を向けていた。そしてみんなが席につくなり冷たく尋ねる。

『それで。どうしてあんなふうに言ったのかしら』

 茶色にかけた最後の言葉の話だろう。答えを間違えると氷漬けにされて恒星まで蹴り飛ばされてしまう(体験談)。漂いはじめた不穏な気配に目を泳がせていると、

『まあまあ。なにか考えがあったのよね?』

 ケーキスタンドを抱えたピッケ姿の女神さまが優しい声であいだに入ってくれた。お手製のケーキはずいぶんと昔に作られたものだけれど、果物の切り口に痛んだ様子はない。

 話題を変えてくれないかな。

 だけど、時の女神さまは丁寧にケーキを皿に移していてこっちを見てくれない。その皿を受け取った風ネコさまはぺろりと舌なめずりをするのに夢中。オーロラネコさまは顔を背けた。唯一目があったマークィーは『みゃあ』と鳴いただけ。ボクは白ネコ女優の圧に屈した。

『……忘れないで欲しいから』

『はっきりと言いなさい』

『……茶色はさ、弱いネコだから、ふとした拍子でまた逃げ出すんじゃないかって、心配だったんだ。だから不安を感じさせるために、“あの部屋の話”をしたんだよ』

『とうしてわざわざ不安を?』

 オーロラネコさまがミルクポットを傾けながら尋ねた。

『あのときの茶色はすべてやりきって、今までで1番心の安定した不安のない状態だったんだ。だけど、弱さっていうのはそういうところに付け入るんだよ。

 弱さは、不安のない、“楽な”状態を求めだす。

 つまりね、難しいことを考えたくなくなるんだ。そんな状態のときに困難に出くわしたらどうだろう。逃げ出すだろうね。少なくとも逃げ出したいっていう弱さが膨れ上がる。だから頭を働かせ続ける必要があったんだ。困難が立ちはだかったとしても、すぐに考えて動きだせるように。

 “空と大地のつなぎ目の部屋”の話をしたとき、茶色は不安を抱いたはずだ。“願いの代償”と聞いて、思い浮かべた“大切なもの”は1つだけだったろうから。本当なのか確かめたい、否定したい。そういう気持ちで頭を動かしはじめただろう。その状態を作ってあげたかったんだよ』

 白ネコ女優は手元のスプーンに目を落とし、混ざっていくミルクと紅茶を見つめながら言う。

『だけどあの子は乗り越えてここまできた。違うかしら』

 厳しいなぁと思う。“茶色はつよくなった。ボクと違って”という言葉がないだけ気を遣ってくれているのかもしれないけどね。

『乗り越えた、なんて簡単には言えないよ。困難を前にどう動くか。それは性質だからね。鏡にも映らない以上、本当の自分を知ることは難しい。心の奥はそうそう覗けないよ』

 時の止まったケーキの角にフォークの峰を当て、下の皿まで一気に下ろした。ザクッと小気味のいい音が響く。

『心の奥を知ろうと思うなら、このミルフィーユみたいに何枚も何枚も自分という層を重ねて見る必要がある。そうすれば脆くて弱くて欠けた、自分の性質というものが見えてくるだろう。ボクみたいにね。

 たしかに茶色は、ボクたちとは違う選択をした。たった一枚のパイ生地の中にある、“小さな欠け”を見つけ出してそれを埋めたんだ。すごいよ、それが“家に帰る”という選択に繋がったんだからね。ひとつの困難を乗り越えたとも言える。

 でもそれは、ひとつの“欠け”を見つけただけ。すべての“欠け”を見つめ直したわけじゃない。弱さ脆さは他にいくつも残ったままで、いつまた困難から逃げようとするかは分からないんだ』

 だからボクは茶色に“不安の欠片”を埋め込んだ。そう言ってこの話題をおしまいにするつもりだった。

『それで。本当のところはどうなのかしら』

 ボクのミルフィーユが真っ二つに割れた。その切り口の鋭さに思わず総毛立つ。

『ど、どういうことだろう』

 微動だにしない白ネコ女優は、白のユキヒョウの時よりも迫力があった。視線をそらそうとすれば彼女の目は細くなる。当然、待っても援軍は来ない。風ネコさまも、オーロラネコさまも、マークィーでさえうつむいて座っているに違いない。にこにこしているのは時の女神さまくらいだ。

『だって……』

『だって?』

 目を落とすと、そこにあったミルフィーユの欠片が、フォッ、と雪煙にされて消えてなくなった。

『だ、だって……………………ずるいじゃないか。ボクだってホントは』

 続きを求める視線を感じたけれど、その先は意地でも口にしなかった。絶対に言うもんかとしっぽを立てていたら、しばらくして、『はぁ』と呆れ混じりのため息が聞こえてきたよ。

『やっぱイジワルだなー、茶色はー』

 紅茶に映った自分の顔をみれば、みんなが笑う理由もよく分かる。

『笑ってくれていいよ』

 お道化て言うとさらに笑われたけれど、ふと、何もないところからさらさらとケーキに粉雪が降ってきた。粉砂糖だった。

 驚いて顔をあげると、女神さまはたった今話しはじめたみたいな声で、

『これからどうするつもりなのかしら』

 と話題を変えてくれた。すっぱいようなイチゴの香りが鼻に届いて、その奥に粉砂糖のほのかな甘さを感じた。ボクはそれを吸い込んでから、背筋を伸ばして答えたよ。

『お母さんネコの近くには茶色がいてくれるからね、ボクはここから見守ってるよ』

『今からでも遅くはないのよ?』

 すんなりと頭が左右に動く。

『ボクは、帰らない』

 ボクはこっちを選ぶ。いちばん遠いけれどいちばん近いこの場所で、この世界の裏側から想っているくらいは、赦してもらえるよね。

『ボクは書くんだ。約束したからね』

 何も言わずにティーカップを傾けるみんなの横顔は、マズルのせいかな、笑っているように見える。

『第9次元で渦が広がり始めたわ』

 雪と氷の女神さまが思い出したように言うと、オーロラネコさまが肩をすくめた。

『まったく、父さんときたら融通がきかないんだから』

『まあまあ。そうは言っても今回は早めに手を打てそうね』

 時の女神さまはティーポットの温度を確かめて、上機嫌な風ネコさまのおかわりを注ぐ。

『なーなー茶色も行くんだろー? 今度はオレも手伝うぞー』

『うーん、でもなぁ。あそこはいろいろ違うから、こんがらがっちゃうんだけど。今回ボクは休んでも――』

『ミルクティー、凍らせるわよ』

 いつかどこかのボクたちは、これからまた騒がしくなるだろう。

 大変だけど仕方がない。みんなが家を飛び出して、出会って笑い合うための、とびきりワクワクする物語を約束したからね。

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