(141)11-10:それでもね

***

 深く、雪の中に沈み込み、それからどれくらい経ったのかは分からない。

 赤ちゃんネコみたいに丸めた身体は、上を向いたまま静かに凍っていった。

 けれど、頭の中ではもう次のレースが始まっていたんだ。

 まず、広場に大きな穴が開いたらすぐに芯で飛び、中継地点までをひと息に突き進む。それから大きなスラブでパティオ・ゼノリスに乗り込んで、ネコ・グロテスクたちをいなしながら次のスラブに乗りかえれば、マークィーの森、キッツ・コティ・ローグを駆け抜けてまもなくゴールだ。これでまず、ひとつ目の特別賞をとる。

 それを数回繰り返し、雷雲ネコさまが動き出す頃合いを見て動き出すんだ。作戦のアイデアは次々と浮かんできた。情報があるならアレができる、権能を借りられるのならコレができる、遠くを見通す目があるのならソレができる、ってね。

 大渦は拡がってしまうけれど、最後にはみんなで一緒にゴールをする。笑顔であふれたその光景を、何度も頭の中で描くのは、それはそれは楽しい時間だった。このままずっとそうしていてもいいとさえ思ったよ。

 ただ、100回くらいゴールしたあとで、ふと上が気になり、まぶたを開けたんだ。

 この雪、どこまであるんだろう。

 茶色は、見上げた暗闇の向こうを見つめてうーんと唸る。

 林に積もった雪の中だからね、そう深くないところに地面はあるはずだった。なのに、周りには雪ばかりで、黒土のひとつぶも見あたらない。おかしいなぁと腕を組む。

 なにより見上げても光がないのが不思議で仕方がなかった。

 あの闇の向こうには、さっきまで見ていた小さな光があったはずなのに、と。

 茶色いマイケルは光の行方に思いを馳せた。

 遠くに行けば行くほど物は小さく見える。だとすれば見上げたあの暗闇のどこかに実は光があるはずなんだ。だけど目には見えない。でもそこにはある。そう分かってる。不思議だなぁ。

 その時だ。

 コッ、と音がした。

 軽い浮遊感のあと、身体がピタリと止まる。

 なんの音だろうかと思っていると、真横の雪がガサガサと蠢いて、真っ暗の闇から焼けただれた顔が現れた。鼻先に突きつけられたキャティの顔は、ぼんやりと白く光っていた。

 あんた、なにしてんだい。

 その形相を見て、どうかしたの、と尋ねたつもりだった。

 けれどなぜか、ありがとう、と言っていた。

 キャティは目玉を半分むいて、ふざけるな、はやく元に戻せと、鉄を引っ掻く声で怒鳴りつける。それからコロリと声色を変えて、

 そうだ坊や。坊やはここに居たいんだよねぇ。

 と、まるで別ネコにでも話しかけるように聞いてきた。戸惑いながらも頷く茶色。なのに口が勝手に動くんだ。ふつふつと粟立つ茶色の肌を無視して、キャティと“声”との言い合いは奇妙に続いていった。

 あっちには、きっと何かがあるよ。

 あるとすれば得体の知れない何かさ。油断ならないね。

 でも、何かあるって思ったら、行ってみたくなっちゃった。

 そんなことじゃ成したいことは遂げられないよ。

 ううん、きっとできるはず。

 身体をよこしな!

 茶色の困惑をよそに、朗らかな声が口をついて出る。その意気が明るく強まっていくにつれて、身体は雪の中をぐんぐんと上に向かっているらしかった。空気が重くのしかかってくる。

 ほら、聞いてみてよ。

 ざわめきが降ってきた。それはごったがえした神さまたちの声で、愚痴、恨み言、不安や願い、戸惑いや励ましの寄せ集め。まったく関係のない話をしてる神さまもいる。

 ふん、好き勝手言って。これが世界だよ。不確かで、コントロールできない理不尽であふれてる。やっぱり成したいことがあるのなら道筋をつけなきゃね。真っ暗闇で見つけられるものなんて何もないんだから。

 見えなくても聞こえるよ。世界はこんなにも賑やかなんだ。賑やかで温かくていい匂いまでする。

 すぅっと吸い込んだその空気の豊かさに、茶色は胸の内側からドンドンと叩かれた。

 ね、まだまだなにか起こりそうでしょ? あっちにいけば何かありそうだって思えてこない? 起こらないと思っていたことでさえ、もしかしたら――。

 もしかしたらに身を任せてもいいのかい、ありもしない光を求めるのはおよし。

 光ならあるよ。今は見えていないだけで、あの向こうには変わらず光があり続けてる。

 茶色いマイケルは何かが近づいてくるのを感じた。

 見える光にだけ目を向けな!

 だけどあの先にあるはずの光のほうがあたたかだ。

 ぱっ、と光がつき刺さる。

 一瞬、頬肉をひきちぎりながら睨みつけるキャティの顔がはっきりと浮かび上がった。

 それと同時、雪景色が飛び込んできた。

 その場所は、はらはらと雪の舞う、見慣れた白樺の林の中だった。いつのまにか茶色はさっきと同じように、雪の上に浅くおしりを埋めていたんだ。

 かたわらには、雪の中から頭を出すキャティの姿がある。秘密基地の方を振り返り、なぜかわなわなと震えていた。

 あの子ネコも、もう帰るんだ。

 視線をたどると、雪をかぶっていた子ネコが起き上がり、レジャーシートを木にくくりつけているところだった。寝ていた場所の雪を丁寧に均したあと、地に伏せて指をさし、よし、と頷いて街のほうへと鼻を向ける。

 あたたかい匂いを思い出したんだろうね。そういう時間なんだよ、きっと。

 歩きはじめた雪の子ネコが、さくさくと目の前を通り過ぎていった。

 その姿を目で追うキャティは、むき出しになった頬の肉をびくびくと痙攣させながら、しばらくのあいだ臼歯を激しく擦すり、その音で茶色の毛を細かく震わせていた。やがてそれが止むと、空気の抜けていくような、深くて長い長いため息を、はぁ、と垂れた。

 白い吐息が雪の上を重たく這って、消えてゆく。

 言葉が出てくるまでには、ずいぶんと時間がかかったと思う。それが誰に向けたものなのかは分からない。

 ばかだねぇ。

 雪が、彼女の頭のただれた地肌と白い毛とを、一緒くたにおおっていった。

 いつもそうだったでしょ。

 声は、大事なものを並べるように、言葉を紡いでいく。

 遊び足りなくて、居心地がよくて、この時を手放したくなくて。だだをこねるようにギュッと丸まってた時、いつも頭に浮かぶものがあったよね。そこには無いのに、必ずあると分かっていたもの。いつも待ってくれているもの。それを思い出すたびに帰らなきゃって思った。だから、あっちにも、きっと――。

 儚げにさらさらと舞う雪の中、白樺の林を子ネコの背中が遠ざかっていく。雪は手をふるように斜めに降って、雪とそれ以外との境を厳かに消していった。

 その、ただ1つになった色をまぶたの裏に焼きつけて、茶色はおそるおそる目を開いた。

 錆びた鎖に吊るされた銀の大皿。

 大きく傾いた左の皿には、死んだようにうずくまる白猫の姿がある。

 聖秤フェリス。

 ふと、その向こうに目を奪われた。

 銀の支柱の先にある、星の芯の表面だ。今までちっとも気が付かなかったけれど、そこにはなんとも賑やかな彫刻が施されていた。芯を重ねているのだろう、幾万もの神ネコたちが手足をつないで、みんなが同じところを見上げている。虹の橋のかかったその先には、ずんぐりした獣にまたがるネコたちの姿が勇ましく彫られていた。

 見れば足元、6段しかない階段にも賑やかな絵がある。空や山や海など、自然の景色――ううん、表の世界の神さまたちの姿がのびのびと、明るくはっきりとした色づかいで描かれていたんだ。そのところどころには子ネコたちが元気に駆け回っている姿もあるよ。

 さらにさらに。聖秤フェリスの裏には、誰かがこっそり置いたらしいお供えものが並んでいた。前に女神さまが粉々にしたものと似たような杯が、いくつも置かれている。中身はきっと植物や動物の死骸だろう。

 ここには、神さまたちの願いが溢れていた。

 それを感じたとたん、唐突に想いがあふれだしてきた。こぼれてくるそれを抑えきれなくて、目から鼻からこぼさずにはいられない。雪の底でダイヤモンドよりも固くなった氷の粒のような、小さくて、でも重たくて、抱えきれない、大きな気持ちが、どんどんどんどん溶けてくる。

 いまにも漏れそうな嗚咽を飲み込むと、それを笑うように身体が震えた。

 まったく、と胸の奥で声がする。

 どうしてこう、抑えつけちまうかね。黙って自分のことだけを考えてりゃ、こんな思いをせずに済むっていうのに。

 しわがれた声は呆れを通り越していた。まぁ、こうなっちゃ仕方ない、と吐いたため息は温かい。

 どうせ分銅を置くのなら、ついでにソレも置いていきな。そんな顔、誰に見せるつもりだい。

 茶色いマイケルはうなだれるように頷くと、小さな小さな声で囁いた。

 黄金色の分銅は、もう皿の上にあった。

 飲み込んだつばの音が、耳の内側でどくんと鳴った。

 分銅の真上で開いたまま硬直していた手を握りしめると、しまいきれていなかった爪が、手のひらに深々とつき刺さった。

 茶色いマイケルは子ネコなんだ。

 知っていることも、出来ることも少なくて、深い考えも持っていない。

 自分の考えもうまくまとめられないから、誰かを説得なんてとてもできやしない。

 特別に力が強いわけでも、すごく行動力があるわけでもないし、臆病でためらいばかりで、いつも迷子になっていて……勇気もない。

 弱っていくお母さんネコの姿さえ、見ていられずに逃げてしまう。

 そんな、弱くて情けない、逃げ続けていることからも目を背けて逃げるくらい、本当に、どうしようもなく、ちっぽけな子ネコなんだ。

 だけどさ。

「かえりたくない」

 それでもね、泣きながら世界を救ったよ。

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