(138)11-7:雪マイケル

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 ティベール・インゴッドを置く直前、茶色いマイケルが目をつむると、芯のあたりから声が聞こえてきた。

 ほんとにいいの?

 抗いがたい声だった。

 するとまぶたの裏、どこからともなく雪が舞ってきて、たちまちのうちに吹き荒れる。猛烈な雪風は戸惑う子ネコをからめ捕り、暗がりの奥へ奥へと連れて行ってしまった。

 雲が低く垂れこめていた。

 雲には夕日の名残がかすかにのっていて、そこからちらちらと雪が舞ってくる。鼻頭に降りた雪片につつかれると茶色は、素早く辺りを見回し、雪の上を走り出した。

 懐かしい景色だった。

 まばらに立った白樺の林が、雪上にうすい縞模様の影を敷いている。視界いっぱいに舞う雪はいかにもふわふわだけれど、積もった雪は先へ進むほど硬くなっていき、ザッ、ザッ、ザッという氷の響きが大きくなった。

 その場所は特別だった。ご先祖ネコさまの丘へと登る坂道の、その少し手前。大森林の入口近くにある、木々のあいだにレジャーシートを敷いただけの何の変哲もない、だけど、茶色いマイケルだけには特別な意味を持つ場所。

 足早に落ちる雪の中、秘密基地には1匹の子ネコがいた。

 うつ伏せになり、真綿のような息を吐いている。いつからそうしていたのだろう、顔以外のほとんどは真白な雪に埋もれてしまっていた。

 帰るの?

 茜はすでに無く、月は雪雲の向こう側に隠れてしまっている。うすい夜闇が一枚かけられて、雪上の縞模様はもう見あたらない。

 声は胸の内側から響いてくるようだった。子ネコの瞳につやは無く、無機質な目には力ばかりが宿っている。茶色いマイケルは押しつぶされないようお腹に力を込めて、もちろんさ、一緒に帰ろうよ、と出来るだけ明るく手を差し伸べたんだ。

 子ネコの目は昏さを増した。雪がまだらに濃い影を落とす。

 覚えてないの?

 “何を”とは言わなかった。答えも分かっているという口調。

 茶色いマイケルも“何を”かは聞かず、口をとがらせた。

 覚えてるに決まってるじゃない。

 そりゃあ、いつもニコニコしていたから瞳の色は曖昧だけど、暗がりで光るまっしろな右耳も、優しく擦りつけられる茶色い頭の感触も、目の前にいるように思い出せるよ。

 台所に立つ背中、湯気の立つ料理。窓を拭きながらの鼻歌や、ホコリを見つけたときのキラリと光る目、ジャンプ一回で天窓をピカピカにしたことだってはっきりと覚えてる。

 それだけじゃない。そうだ、はしごから落ちかけた壁塗りネコさんを助けたこともあったよね。誰よりも早く聞きつけて外に飛び出していった。スノウ・ハット中のネコの顔を絵に描いてくれたりも。そのあとのモノマネはあんまり似てなかったけどさ。

 ぴょんぴょん跳ねるように言い終えた茶色いマイケルは、ほら、ちゃんと覚えてるでしょ、と胸を張る。だけど雪をかぶった子ネコの目を見てたじろいだ。

 そうおもいたいの?

 蔑むような、憐れむような、そんな目だった。

 追いやられるように視線を揺らした。けれどやがて行き場がなくなり、そしてとうとう、忘れたわけじゃないよ、と言ってうつむいたんだ。

 忘れたわけじゃない。

 その顔は、いつも頭の片隅にあった。どこか遠くに置いてきた、手の届きそうもない何かに思いを馳せる顔。いつの頃からかそういう表情をすることが増えていた。

 そしてお母さんネコの反応はだんだんと薄くなっていった。

 声をかけても黙ったまま。つまづく事も多くなっていた。もの忘れもたびたびあって、何度となく話したことでも、そんなことがあったのねと言ってニコニコしていた。

 ふとしたはずみで消えちゃいそうだったんだ。だから前を歩きながら声をかけ、いつだってうしろに耳を澄ませてた。大丈夫、聞こえる。お母さんネコはちゃんといる、って。

 向かい合うことはなるべく避けていたよ。

 間近に見上げてしまうと、すうっとうしろに引っ張られるような気持ちになったから。

 それはまるで、手のひらに降りてきたひとひらの雪を見ている思い。雪の結晶は膨らむように溶けていき、あと少しというところで形を残す。水滴の中で溺れる姿には心がざわついた。

 きれいな結晶の形に戻したい。冷たいところに置けばまた固まるだろうか。そうだ、たくさん雪のあるところに連れて行ってあげれば――。そうこうしているうちに水滴だけになっていた。

 水滴は、ずいぶん多かった。

 そんなときさ。シロップ祭りの顛末を知って、お母さんネコが大笑いしたんだ。チルたちのお母さんネコも一緒になって、家の中は久しぶりに笑い声で溢れたよ。茶色いマイケルは「もお」と言いながら目の端を拭ったのをよく覚えている。

 だからここまで来たんだ。

 そう、ここまで来た。舞い込んだ冒険の話に食いついて、大変で、胸を引き裂かれるような思いを何度となくしてここまで来た。来られたんだ。越えて、登って、前を向いてたくさん集めてきたんだよ。いっぱい持って帰ろうと思ってた。あと一歩なんだ。もう少しで本当の物語を聞かせて――。

 なのに帰るの?

 ……仕方がないよ。みんな帰りたがっているんだ。平和な表の世界にさ。

 平和な? “みんなにとっては”をつけ忘れてる。

 茶色いマイケルは、眉間の奥に湿ったうずきを覚え、脳をほじくり返される不快感に襲われた。今にも吐いてしまいそうだったから、冷たい空気を思い切り吸い込んだ。

 もう行くね。

 言って、来た道にそそくさと目を向ける。足跡が消えかけていた。雪はいつしかひざ下を埋めるほどに積もっていて、抜き差しする足を重く阻んでくる。戻れるかな、と気を落ち着かせ、林の向こうを無理に見据えて歩いた。

 だけど、ガリガリの雪を踏みつぶす音が、茶色いマイケルを立ち止まらせた。

 ねえ、あっちに行けば一緒にいられるよ。

 世界さえ元通りになったのなら、また一緒にいられる。それだけでいいと思ったはずだ。あの時、あの雪山で、オレンジ色に輝き始めたこの星を見ながらさ。それ以上を望むのは欲張りネコってものだろう。

 そう思って振り返り、もう一度だけ手を差し出そうとしたんだ。

 その表情に慄(おのの)いた。

 一瞬で視界は狭まり、交差した視線をすぐさま外す。泳ぎまくる眼球は白樺の模様をつたい、空とも地ともはっきりしない陰りの中をおろおろとひとしきり漂った。そうして雪を這い、やがて息絶えたように埋もれた足元に落ち着いた。

 だめだ。もう行こう。

 説得を諦めた茶色いマイケルは、慌てる心臓を落ち着かせようと、はぁぁ、と白い息を吐き出した。足をつかまれたのはその時だ。

 腕が飛び出した。黒土混じりの雪をはじき飛ばした腕が、獰猛な蛇のように茶色いマイケルの腿に喰らいついてきた。キツく巻いた包帯を爪が貫き、傷口をなぞって引き裂いていく。噴き出た鮮血が雪に撒かれると、その下からは焼けただれた顔がのぞき、爛々と目を輝かせたネコが、静かに嗤っていた。

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