(134)11-3:窪みの中で

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 暗がりの奥で、茶色いマイケルは小さな白い息を吐いていた。ここは星の芯の裏側にある窪みのひとつ、うっすらと雪の積もった氷の洞窟だ。

 白のユキヒョウに連れて来られた時は、ティベール・インゴッドを秤の上に置くことができなかった罰として閉じ込められたのかと思ったけれど、冷たくて空気の張ったこの場所は、とても落ち着く。

 落ち着いてみると『ここにいなさい』と言われた意味も分かってくる。茶色いマイケルは湧いてきた疑問を頭の中で声にした。

 どうして分銅を置けなかったんだろう。

 あの時、秤の皿に手を伸ばしてからの時間が永遠にも感じられた。分銅と皿との隙間にある空気が、固まってしまったのかと思うくらい、強い抵抗を感じたんだ。

 理由はすぐに浮かんだ。

 ――ここに至るまでの記憶は失われます。

 それは、これまでに見てしまった残酷な記憶や暗く苦しい想いから、茶色を解き放ってくれるものでもある。ネコ・グロテスクたちのことを知り、ケマールさんの芯に触れてからというもの、世界が違って見えるんだ。見えないところでは今も残虐なことが行われていて、誰かが苦しんでいるんじゃないかなって。そういう考えが拭えなくってすごく怖くなる。だからもし記憶が無くなれば、また光の中ではしゃぐみたいに、無邪気な気持ちで世界を信じていられるかもしれない。だけど。

 楽しい思い出もたくさんあったんだ。心を動かされた出来事も1つや2つじゃないし、それを忘れてしまったら……。

 茶色いマイケルは抱えた膝におでこをつけて目をつむり、足元にうっすら積もった雪を集めてそっと握ったよ。冷えているからだろうか、肉球の上にのせた雪はちっとも解ける様子がない。

 目をつむると、神ネコさまたちの『ありがとう』が浮かんでくる。3匹の決意と寂しげな微笑みが胸を刺す。

 もっと簡単な方法はあったんだ。特別賞をとれば、神さまたちの件も簡単に片付いて、そのあとマタゴンズたちに追いつかれることもなく、ケガすることさえなかっただろう。

 でもみんな茶色いマイケルの気持ちを汲んで付き合ってくれた。そのために辛い思いもしてきたはずだ。大空ネコさまたちにしてもそうだ。意識がなければ辛い思いもしなくて済んだ。他の神ネコさまたちだって、せっかく拓けた未来を閉ざされて、ガッカリすることもなかったはずだ。

 動かなきゃいけない、戻らなきゃいけない理由はいくつも浮かんでくるのに、身体はどんどん重くなっていく。子ネコは折りたたんだ身体をさらに縮めて身体を抱き、卵みたいに丸まって、暗い殻の内側へと落ちていった。

 足音がしたのはもうすべてを忘れて眠ってしまおうかと思い始めたころだった。膝にくっつけていた額を少しだけ上げて、入り口をのぞき見る。すると覚えのある顔が手をあげていた。

「いよう、茶色チャン。やってるか?」

 子ネコは跳ねたしっぽを背中に隠す。

「いやぁ、あの女神さまがよぉ、神さまたちに『近寄ってはいけません』なんて言うもんだから送ってもらうことも出来なかったぜ。裏側まで来るのにかなりかかっちまった。1日くらい経ったか?」

「どうだろうね、眠くもならないし、体内時計がすっかり狂っちゃった。茶色チャンは? 少しくらい眠れたかな。……って、ここ寒くない? 身体冷えちゃってるんじゃ」

 上半身裸だし、寒いのも無理はない。ハチミツさんとコハクさんは身を抱くように腕をさすりながら窪みの中に入ってきた。2匹は足元の雪や氷に「ほぉ……」と感心しながら、茶色から少し離れたところであぐらをかいた。

「ごめんなさい」

 顔と耳を伏せ、まぶたの裏に逃げ込むようにしてぎゅっと目をつむる。少しの光も入らないよう、ひざを抱えた腕に力を込めた。

 どうしてそうしたのかは分からないんだ。相手は成ネコなんだから相談すれば何かいい解決方法を教えてくれるかもしれない。どうやったら身体が動くようになるかをね。励ましてくれるだけでも、お尻を持ち上げるには十分だったろう。

 なのに、それすら身体が拒否をする。口が鍵でもかけられたみたいにガチッと閉じてしまっていたよ。

 サビネコ兄弟は困ったにちがいない。きっと茶色が動けるようにと思って来てくれたんだろうから。頭をかいたり腕を組んだりする2匹の動きを聞いていると、鼓動が早くなってくる。話くらいまともに聞けと自分でも思ってしまうものだから、頭の中では何度も謝った。もうぐちゃぐちゃだった。

 突然、ハチミツさんが両膝を叩いた。

 反響でめまいのするほどの大きな音だったけれど、それ以上にハッとしたのはその言葉。

「よし! 俺らも残るぞ」

 先に驚いたのはコハクさんの方だった。子ネコを励ますんじゃないのかとすかさず問いかけたんだ。だけど「まあそうなんだけどよ」と言葉を濁すハチミツさんを見て、どう思ったのか、「……それもアリかな」とあっさりと意見を変えた。

 身構えていた茶色はすっかり気が抜けて、いつの間にか顔をあげていた。きっとマヌケな顔をしていたんだろう、兄弟は苦笑いを隠さない。

「べつに引っ張って行こうなんて思ってここに来たわけじゃねぇぞ? 成ネコだってなぁ、迷って踏み出せねぇことはしょっちゅうなんだよ。分かっちまうんだよなぁ、お前の気持ち。こんなところに来るくらい取り返しのつかない失敗もたくさんしてきたからなぁ」

 どっちが正解かなんてわからねぇよ、とひざを叩いて笑った。

「だからってわけじゃないけどさ、放っておけなくってね。うつむいてる茶色チャンを見てたら、俺たちにも何か出来るんじゃないかって思っただけなんだ。頼られたがりってヤツ?」

 明るくて賑やかな声の向こうには、痛みに似た音を聴いた気がする。そこには何か事情があるのかも知れない。けれど茶色は詮索をせずに2匹の冗談に耳を傾けていたよ。

 罪悪感がなかったわけじゃないんだ。すべての解決を引き伸ばすことの意味は分かっているつもりだった。事情を知っている神さまには恨みがましく罵られるかもしれない。口や態度には出されなくても、呆れられてしまうかもしれない。

 けれど2匹が手伝ってくれるのなら。

 猫あたりのいい2匹なら、協力者ネコをたくさん集めてくれるだろう。色々なことを知っているから学べることはきっと多い。力だってスゴイ。

 茶色いマイケルは、この2匹とのぞむレースを想像して、そうしてゴールにたどり着いた一回り大きな自分自身を思い描いて、みるみる力が湧いてきた。

 パッチリと開いた目の先で、ハチミツさんとコハクさんが歯を見せて笑っている。

 子ネコは重い枷を外されたように身軽になっていた。

 な、どうだ? という誘いに口元をたわめた時だった。

「みぃぃぃつけたぁぁあああ」

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