(131)10-6:始まりとゴール

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 あれからどれくらい経ったのか。

 周りには何もない。

 この真白な世界の中では、時の感覚は曖昧すぎて頼りにならなかった。キャティの首に噛みついたのが今し方のような気もするし、骸が風化して、塵も残らぬほど経ったとも思える。

 どちらでもいいか。

 そっと目を閉じるといくつもの顔が浮かんできた。ケマールが奉納官として手を下してきたネコたちの顔。どれも不安に慄(ふる)え、しかしケマールの言葉に、瞳の輝きを取り戻す。

 ひどい詭弁を使ってきたものだ。

 ため息も出てこない。

『あら、こんなところにも』

 気の遠くなりそうな白色の中で延々と過去を見ていたケマールの耳がその声を拾う。冷たくも、手を伸ばしたくなる神々しい声だった。

『今回は多いわね』

 姿は見えないものの不思議と形は分かった。周りの白色とは“存在”の意味がまるでちがう白なのだ。

『あの子たちといい、大きな器の者にはきちんとゴールしてほしいのだけれど』

 はあ、とついたため息が、よく磨がれた砂よりも豊かに光っていた。

『ましてや力を受け取ろうとしない神まででてくるんですもの。まあ、責任を果たす分だけは受け取らせたけれど……』

 あの空気に似ているな。

 一匹言をつぶやきながら真白の中を歩いてくる神を見ていると、芯を交わした時に流れ込んできた、冷たい景色のことを思い出す。

 あの子ネコのしていた、刺すような寒さの中で縮こまり、矮小な1匹のネコを感じ取る、あの儀式とも思える行為は何だったのか。心が透いていき、己のすべてを確かめるようなあの行為は。

 心が凪いだ。見栄えのいい監獄に設えられた、まやかしの安寧とはまるで違う、厳しさの向こうから背中を押されるような感覚があった。ほんとうの安寧とはこういうことなのではないか。チュルクには父ネコの役目がそう見ていたのかもしれない。

 ――ボクはお父さんネコのような立派な奉納官ネコになりたいです。奉納を怖れるネコにその行為の尊さを説き、恐れから解き放ってあげられるような、心優しい奉納官に。

 まぶたの裏に思い浮かべ、願わくば俺もあのような場所で、とそんな考えがよぎった。

『住みたいのかしら』

『場所を作りたい』

 もしもなにかを変えられるのなら、せめてそのくらい。自問自答のつもりだったのだが、口からこぼれてしまったらしい。

『いいけれど、まだ何もないわよ』

 神はなんでもないふうに言う。あまりの軽さに啞然としていると、

『来られたらの話だけど』

 と冷たく言われた。

 容易いことではない。そういう世界ではないのだ。キャティの言っていたように世界には流れがあって、帝国は大きく、他国にしても輝く白毛の民をパンガーとしか呼ばない。どこに逃げ場があるというのだろう。脱出など――。

 だが、と顔を上げた。

『お尋ねする。俺に、それだけの価値はあるだろうか』

『何を選ぶかはあなたが決めなさい。煩わせないで』

 その言葉はどこか、あの場所と似ていた。

 女神は、器を砂で満たした獣の表情を見て、

『そう。だったら機会は逃さないように』

 おもむろに背を向けた。そして、

『険しい道のりでしょうけれど、頑張りなさい』

 つき放すようでいて芯の通った言葉。長く太い立派な尻尾が、砂の獣の頬をさっと拭う。

 かすんでいく意識の中でケマールは、右目のあったところに深々と爪をたてていた。

 痛みよ、どうか――。

***

 最後の一本道に入ってからはなんだか夢のようだった。

 スローモーションだったような気もするし、早送りで飛ばし飛ばし進んだような気もする。

 テレビのリモコンの使い方が分からなくて戸惑っているうちに見たい場面が終わっていた時のように、残念に思いながらも、それはそれでばかばかしくて楽しい時間だったと笑える、そんな気持ちだけが胸の中に残っていた。だから詳しい部分はよく覚えていない。

 たしかハチミツさんとコハクさんが“土砂降りに浮かびながら”後ろから迫ってきて、そしたら灼熱が負けてたまるかと口の端をつり上げたんだ。

 だけどマークィーはもうヘトヘトで、今にもペタンとその場につっ伏してしまいそうだったから、4匹は顔を合わせて頷きあって、500キロはあるずんぐり獣をみんなで抱えて走ることにした。

 そしたらすぐに追いついてきたサビネコ兄弟も、よっしゃと言って足を道につけて走り出した。おんなじように雨の神さまを担いでね。

 ハチミツさんと灼熱は並んで肩をぶつけ合いながら軽口を叩き合っていたと思う。コハクさんは果実と話したりからかったり時々は転がしたりもしていたかな。

 2匹がたびたび話に夢中になって手を離すものだから、残された2匹の負担がかなり重くなり、何度かは文句も言った。笑ってたけどね。ずっとこうだったらと、思えるようなひと時だった。

 ただ、何にでも終わりはくる。

 いつしかそれは、すぐ目の前にあったんだ。

 銀色の、神ネコが何匹もつらなって描いたそれはそれは大きなアーチ。くぐってしまうのが勿体ないような気もしたけれど、とんでもない数の神ネコさまたちが今か今かと待ち構えている。さすがにここで立ち止まるわけにはいかないなって、声援に背中を押されながら、最後はマークィーも黒いジャガーも一緒になってそれぞれで走り出し、力の限り、息を切らして、そのアーチの向こうへ駆け抜けた。

 タタッ、タタッ、タッ、たと、と、ととととと……。

 大歓声の中、短い距離で速度を落とし、歩幅を落ち着かせていった。顔をあげて周囲の神ネコさまたちをぼんやりと見回していると、ふと、音が消えた。

 荒い、自分の息さえ聞こえてこない。

 その場にへたりこんだとは思う。けっこう深い傷を負っていたし精神的にも疲れていたしね。ただ、灼熱が休むまもなく手を出してきた。そうだね、と起き上がった。

 お尻をあげて、顔をあげる。マイケルたちの顔は晴れ晴れとしていた。だからその時にようやく、ああ、終わったんだな、って思ったんだ。

 茶色いマイケルはその先にある“でっかい丸”を見上げた。

 星の芯。

 着いたんだ。

 荒い息と痛みとが、音とともに鮮明になってきた。

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