(128)10-3:傷の向こうには

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 価値ある美にはいくつもふれてきた。

 しかし、朝露のような瞳で愛を語るエイファと、それを支えるチュルクの姿を、なによりも美しいと感じてしまうのだ。並んで微笑みかける2匹を思うだけで温もりが内から湧いてくる。なぜこうも美しいのだろう。不敬かもしれないが他のどの価値よりもそう思う。

 そんな2匹と繋がっていられる。いつでも呼び起こし、最も美しいその時を見て感じていられる。本当に価値のあるものを頂戴した。偽りはない。本心だ。

 だが――。

 ふと、見たことのない場所にいることにケマールは気がついた。夜を薄めたような景色。息が白い。冷たい。

 真白な大地にうつ伏せて、狩りをするように息をひそめているのは……己か?

 そこに、一個のネコを感じた。

***

「……なんだ、今のは」

 気がつくと2匹は、ぶつかり合いながら光の道を駆けていた。ずいぶんと時間が経ったように思えたけれど、周りに変化はない。

「ごめんなさい」

 その一言でケマールさんの左目に理解の光が宿る。勝手に見たな、と怒られるのを覚悟したのだけれど、「そうか」と言うばかりで言葉はなかった。むしろ力を弱めて距離をおき、何もなかったみたいに前を見ている。

 茶色いマイケルはその横顔に言った。

「ボーガン、大切にしてきたんだね」

 するとケマールさんはひとつ頷いて、こぼれた記憶の中で見たのと同じ、頼もしい父ネコの顔をする。

「分かったのならばいい。俺たち『輝く白毛の民』はみな、『わが偉大なる祖国、サンド・アグリッシア大帝国』に己を価値として捧げるために生まれてきたのだ。お前もいずれああして価値へと姿を変え――なにをっ!?」

 不意の体当たりに驚愕を浮かべた成ネコが、足を滑らすように右端へと追いやられていく。卑怯な、と歯を食いしばる音。そこに子ネコは声を震わせた。

「あなたはバカだ。大切なものを奪われて」

「バカ? バカはお前ではないか、見ていたのであれば分かりそうなものだ。奪われたのではない、授かったのだ」

「ちがうよ。あなたは選ばなかった。捨てたんだ」

「捨ててなどいるものか!」

 見ろ、と吐いて子ネコに右手を向ける。頭上の道が影を落とすとその暗がりに、白骨のボーガンが神々しく浮かび上がった。

「価値はこうして俺の手に――」

「代わりになるもんか、そんなもの」

「そんっ……キサマッ」

「それは骨だ!」

 茶色いマイケルは、激昂した獣の顔から目をそらさない。

「そこに、大切だったものはない」

 道具にされたネコたちを知っている。少しだけれどその心に触れもした。だから分かる、彼らはどんなに命を使われても、誰1匹としてそれを良しとはしていなかった。許しはしなかったんだ。

「ネコは、心まで誰かの価値にはならないよ。心は心。そんなものになるもんか」

 飾られるために生まれて来たんじゃない。

 心から望みはしないんだ。

 威嚇の顔は恐ろしい。それでも子ネコは怯まずに、負けるものかとびくともしなくなった成ネコの身体を押し返す。

「思い出してよ。ここにきて願いが叶うと聞いて、真っ先にあなたが思い浮かべたものはなに」

 ボクには分かる、と答えを待つ間もなく言い切ると、にらみつけるケマールさんの瞳孔がすうっと開いていった。緑がかった瞳の奥に、芯の中で見たあの景色が見えてくるようだった。

 ――砂の嵐にとり巻かれた、ひどく暗い場所。

 温かで、穏やかで、ぼんやりとした光の中で、足の悪いエイファさんをチュルクくんが支えている。

 そんな2匹を、ケマールさんは少し離れた場所から見ていた。

 1匹ぼっちのお父さんネコに2匹が微笑みかけると、彼もそれに応える。

 だけどこの成ネコには本当の顔が見えていない。家族のあいだにはたくさんの傷があって、そのせいで向こう側がぼやけてしまっているんだ。この曇りガラスみたいな傷がある限り、2匹の顔はなんとなく幸せそうに見えるだろう。それはそれで幸せなのかもしれない。でも本当は――。

 ジャッ、と光の削れる音がした。上下にうねる道にさしかかり、手足をつき損ねたところを狙われ一瞬で左端まで追いやられてしまったんだ。足場がない。

「認めろ。価値こそすべてなのだと」

 牙を剥くケマールさんの古傷は、赤く膨らみ血が滲んでいた。

 同胞と、今でもそう思ってくれているのだろう。だとすれば謝ってしまおうかとも思う。素直にハイと言ってしまえば落とされるどころかゴールまで守ってくれるかもしれない。だけど。

「傷の下のあなたはなんて言っている!」

 怒鳴りつけると、彼は信じられないという顔をした。

 この成ネコは、いつも小さく問いかけている。傷の向こうで微笑む2匹を眺めながら、一方で、寂しそうな目をしているチュルクくんと涙を流していたエイファさんとを頭の中で思い出しながら、「あの時どうしてそんな表情を?」って。いつだってうっとりとした表情で優しく、機嫌をとるように、ううん、懇願するように、ボーガンに問いかけているんだ。

 なのに、

 ――これを喜ばずにいられましょうか。ね、お母さんネコ。

 ――これもまた幸いの形なのでしょう。ケマールさん。

 2匹はいつだって温かくそう答えるばかりだった。傷の向こう側、遠く離れたところに並んで立って微笑んで、「幸せです」と口を揃えて言う。いつか見た姿のまま、少しも変わらない声で同じ言葉を繰り返す。これでよかったのですと。

 だから答えが分からず問い続けているんだ。いつもいつも、いつまでも。

 それはどこか『あわあわの大渦』を思わせた。繰り返す後悔に心を壊されていったあの神ネコさまたちと重なって見えてくる。

 見せてあげたい。今も砂の嵐の中でズタズタにされ続けるケマールさんに、あの曇りガラス――傷の向こうにある2匹の本当の表情を。

 たとえそれがどんなに残酷なことだったとしても。

 茶色いマイケルは歯を食いしばった。口の端がピッと裂けた。そして心を決めた。

「あなたは、家族ネコに何をした!」

 道は急降下に差し掛かる。奇妙な浮遊感に必死で抗った。

「あなたは、お母さんネコのお手伝いをするチュルクくんを、いつも、美味しいごはんを作ってくれるお母さんネコをどうやっ……どうやって価値にかえたんだ!」

「わけのわからんことをぉ」

 頬が裂け、目が吊り上がる。

「奉納は神聖だ。痛みもなければ恐れもない。ようく見ろ! こうも美しく輝いているではないか。この輝きこそが何よりの証拠なのだっ。苦しみなどないっ」

「でもボーガンはしゃべらない!」

 身体がつめたく滾ってる。子ネコは自分の身体からうすく白い、そしてひどく冷たいモヤのようなものが立ちのぼっているのを感じた。

「傷の向こうを見てみてよ。あなたのしたことをもう一度ちゃんと、見てっ! 思い出して!」

 ケマールさんの顔が一瞬で血にまみれた。滲んだ血液が顔の毛をベタベタに濡らし、焼き潰された右目の縁からは膿までが垂れている。その腐った樹液みたいなドロドロが、力をこめた拍子に茶色いマイケルの頬にぬちゃりと塗りたくられた。

「思い出して!」

「うるさい!」

 ぶちりと音がして、膿の出ていた右目の肉が裂け拡がった。それと同時、ギリギリで保っていた均衡が崩れて茶色いマイケルは道の外へと押しやられてしまう。「ばかめ」と小さく聞こえた。だけど。

「話はまだだ!」

 血しぶきを飛ばして驚くケマールさん。なぜなら茶色いマイケルが彼の足をつかまえて、しがみつくでもなく引きずり落としたからだった。

「生きて帰りたくないのかああ!」

「見過ごすもんかっ!」

 2匹は宙で激しくつかみ合い、鼻息を荒くしてもつれ合う。成ネコは容赦なく爪をたて、全力で引き剥がそうとする。いっぽう子ネコはその痛みを噛み殺し、

「目を開いてよおお!」

 ケマールさんの裂けた右目の中に指をつき入れ中に溜まっていた血の塊をかき出した。膿と血とが一緒くたになってどろりとこぼれだす。それはすぐさま濁流となってどうと押しよせてきた。芯だ。

 芯の光が芯へと突き刺さる。

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