(112)9-5:古戦場

***

 雷雲ネコさまの怒りは目に見えた。

 紫電のたてがみが外に向かってほとばしり、器の中の黒雲は、のたうち回る雷蛇を揉み込むようにうねっている。

 すぐそばにいた神ネコさまたちは後ろに飛び下がり、岩の中央にはライオンだけが残った。焼けた空気のにおいが鼻をついてくる。

 ただ、怒りはほんの数秒のことでしかなく、蒸気の抜ける音が続いたと思ったら、何事もなかったように平静へと戻っていたよ。

『失礼。これは罠だな』

 うつむきがちに頭を振ると、紫電が飛び散り風に溶けていく。浮かべたのは苦笑い。向きは大空ネコさまだ。

『我々神は、レースの最中に権能を使えない。それと知っての挑発かと思われます』

『僕たちを怒らせて権能を? 無茶するね。ヘタしたら自分たちがやられちゃうじゃない』

 捨て身かな、と首を傾げた。

『その可能性も捨てきれませんが、おそらくは権能貸与でしょうね』

『ああ、さっきの』

 茶色いマイケルは、メガロ・カットスたちに向けて放たれていた権能を思い出す。マタゴンズは大空ネコさまたちの力を部分的に使っていた。

『相手がネコだからと油断して勝負を受けたが最後、どこの者とも知れぬあの弱った神の権能を使われて追い込まれる。そういう筋書きなのでしょう』

 そう言うと雷雲ネコさまはもう一度子ネコたちに向き直り、今度はじっくりと見回していく。目を合わせれば黒雲の闇の中に引きずり込まれそうで、茶色いマイケルはふいと顔をそらしたよ。

『ふん。まぁいい。神とネコ、もともと対等ではないのだからいくらルールでバランスを取ろうとしても歪になるのは当然のこと。その勝負を受ける理由や利益が我々にない以上、全ては時の浪費でしかないな』

 ではこれで、と言いかけたところで雷雲ネコさまがハッとして辺りを見渡した。いや、雷雲ネコさまだけじゃなく大空ネコさまや他の岩上のネコさまたち、岩下にいる雲派閥やクロヒョウたちまでが一斉にあちこちに視線を飛ばしはじめたんだ。

「え、なにぃ!? なにが起き――」

 戸惑う果実の声は、地面の隆起によってさえぎられてしまう。赤錆びた地面は噴水の頂点みたいにざばざばと流れながら膨れ上がり、盛り上がっていき、子ネコたちの目の前にあった青い巨石をどこか地の奥深くへと押し流してしまった。

「あれは」

 砂しぶきの中で灼熱のマイケルの声がした。両腕を顔の前に構えて向こうを透かしてみれば、茶色いマイケルも細めた目を見開かずにはいられない。

『面白そうなことをやっているようだね』

 全身にかぶった砂を滝のように流しながら四足で立ち上がり、ぶるりとそれを振り払う。砂は周りに飛び散りネコも神ネコさまも全部埋めてしまった。巨大なスナネコが現れた。

『おぉ、すまんすまん』

 地核ネコさまは悪びれることなく大笑いするといきなり、

『儂が認めよう』

 と、しわがれた、それでいて力の漲る声を発したよ。器の中には光としか呼びようのないものが詰め込まれ、海流のように循環している。それは明らかに眩しいはずなのにちっとも眩しくはなかった。輝く砂のようだ。

 砂の中からズボッと頭を出した茶色いマイケルは、視線の先に、同じくモグラみたいに頭を出して地核ネコさまを見上げる雷雲ネコさまたちを見つけた。

『こ、これは地核の神……相変わらずの、突然ですな』

 たじろぐライオンは、のそのそと砂から這い出しながら『認めるとは、どういう……』と何かを考えながら尋ねる。

『お主の権能の使用だよ』

『まさか』

『闘うのだろう、あのネコたちと』

 ようやく砂の上にあがった茶色いマイケルに、頭だけ出して埋もれている大空ネコさまたちの視線が注がれる。

『星の大神たる儂の権限をもってお主に権能の使用を許可しよう。これであのネコたちが権能を貸与されたとしても対等以上に闘うことができるだろう?』

『そんなことよりさ、地核のじいちゃん。盗まれたのが神世界鏡って本当?』

 大空ネコさまはまっすぐに尋ねた。

『そ、そうです、あのネコたちはあなたから神世界鏡を奪ったというではありませんか。だとしたらまずはそれを取り返し――』

 あー……と、ほら貝を吹いたような長い声が頼りなく響いていった。地核ネコさまは幅広の額を上に向けて言葉をひねり出す。

『まあ、それはいいとして』

『よくはありませんよ』

『いいからいいから』

 強引に押し切ろうとしたらしいけれど非難轟々。他の神ネコさまたちに納得する様子がなかったからか、スナネコは大きな正三角形の耳をパタパタと振り回した。砂が飛んで神ネコさまたちに当たる。

『儂は観たいのだ、あのネコたちの闘う姿をな』

 そんなバカなこと、という声は全員だ。『わかったわかった』と明るい砂色の顔が苦々しくシワを作り、

『ではこういうのはどうだ』

 と、声をひそめた。

『あのネコに勝ったらお主に鏡をやろう』

 それは、雷雲ネコさまに向けての言葉だった。

 ゴクリ。

 喉の鳴らない者を見つけるほうが簡単だ。神ネコさまたちは口々に『雷雲に?』『大空さんでなく?』と顔を見合わせる。

『もちろんその後誰に渡そうがお主の好きにするがいい』

 なんだ、という安堵は砂山に砂をかけるように広がった。

『しかし』

 いやに冷静な声でそう言ったのは、さっき喉を鳴らさなかった唯一の神ネコさまだった。雷雲ネコさまは表情を変えずに、いや、変えることを拒むように地核ネコさまを非難する。

『神々の宝たる神世界鏡を賭けるなどとそんな軽々しくは』

 地核ネコさまは『ケーブ・ライオーネル』と差出口を拒むように強く言う。

『ここは神々の古戦場。鈍色の霧。錆びた地面。いくら取り繕ってもすぐに表れる星の裂傷。遠い昔を思い出す。待っているのだろう、戦いを求める声が聞こえるのだ、儂の中からな』

 天を仰ぎ、歌うように語った。

『この場所に、行儀の良い交渉など似合わんよ』

 ふっと好々爺ネコに戻った地核ネコさまは、視線を雷雲ネコさまから大空ネコさまへと移していった。

 そこに近寄ったのは雲ネコさまたち。大空ネコさまは名前を呼ぶのをためらう。

『大空の神。私は今でもあなたの下(もと)で働いているつもりだ』

 だったら。と、口を開きかけた大空ネコさまを、雲ネコさまは頭を横に振って止めた。

『ネコたちが負けたなら、私たちのことは好きにして下さい。処分に不服は申しません。その時は決して抵抗しないと誓います。しかしもし、あの小さなネコたちがあの雷雲に勝利した暁には、その時は』

 話を聞いてほしい。

 ある意味で命を賭けたようなもの。なのに報酬として秤にかけたものはあまりにも。

 大空ネコさまは頭を動かし、雲派閥、地核ネコさま、4匹のマイケル、そして風ネコさまと、それぞれを順に見たあと、雷雲ネコさまへと顔をむけた。

 視線を感じたのだろう、砂から出てきたライオンは頭を下げ、黒い炎でも流れてきそうな音でため息をついた。

『いいでしょう、分かりました。どうしてここまで私が悪者にされなければならないのかは分かりませんが、我が主からの信頼を失うことだけは何よりも避けねばなりません』

 キッ、と尾を振り上げる。刹那、先端にある紫電の房が激しく火花をあげた。

『我が主、大空の神よ』

 言葉は続かない。はじめからそれ以上を言うつもりはないらしい。視線の先、大空ネコさまは頭の中にかかった靄でも振り払うようにブルブルッと身体を震わせた。

『雷雲ちゃん、証明してきなよ』

 覚悟のこもった一言だ。派閥の神ネコさまたちが一斉に砂の中から飛び出してきて姿勢を正した。奮い立ち、子ネコたちのいる方へと視線を、そして敵意を向けてきた。『俺たちは一塊だ』という気迫に、茶色いマイケルは今まで感じたことのない、恐いのかどうかさえ分からない寒気を感じたんだ。

 雷雲ネコさまの身体がばくばくと膨らんで巨大化していく。

『さぁネコたちよ、お前たちのいまの姿を見せておくれ』

 地核ネコさまのその一言は、唐突に告げられた闘いの合図だった。

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