(11)3-1:さ、始めましょう

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 ピリッと引き締まる会場の空気。

 ざっと見渡しただけでも一万匹はいるネコたちのしっぽが一斉に緊張を帯びると、茶色いマイケルたちの後ろにいた動物たちが警戒心をむき出した構えをとった。

 茶色いマイケルは小声で「心配いらないよ」と馬の頬を撫でたけれど、自分自身これから何がどうなるのかが分かっていなかったから、緊張が伝わってしまったらしい。ブルンと鼻息を吹きかけられて手を突っぱねられてしまった。

 そこへ、「おお」というざわめきが起こる。大噴水の辺りだ。凍りついた噴水の柱に、巻きつくようにぐるぐると炎が伸びていき、その炎がやがて神ネコさまの姿となって駆け上がっていく。柱のてっぺんに着いた炎のネコは、すらっとしなやかな身体を見せつけるように動きを止めた。

『あいつは炎の神。フォルムはカラカルだなー』

 肩の上の風ネコさまがその器の動物を教えてくれる。

『耳の先で毛束が揺れてるだろー。あれ触ったらあいつ怒るんだぜー』

 すごくどうでもいい情報だった。茶色いマイケルは「触んないから」と小声で言い、何が起こるのかを注意深く見つめたよ。そんな注目を一身に集めた炎の神ネコさまは、『シャー!』と炎を猛らせ、

『準備は整っておられるかと思いますが、レースの開始に先立ちまして再度説明を』

 と説明を始め――

『ムダな時間ね』

 ――ようとして止められた。

 あの声……!

 聞き間違えるはずがない。その声はついさっき聞いたばかりなんだ。その声のせいなのかはわからないけど、空気の質が変わった。吐く息が白くなり、会場全体がひどく冷え込んだ気がする。

 すると、猛々しく燃え盛っていた炎の神ネコさまがスッと一歩引いた。頭を低くして、姿勢を正す姿は相変わらず凛々しいけれど、炎はしゅんと萎んで見えた。

 そこへ白ユキヒョウの神ネコさまが上がってくる。

 さっき茶色いマイケルたちのところへ来た時と同じように、ゆったりとした動きで、今度は本当に何もないところに足を乗せながら、まるでそこに立派ならせん階段でもあるように、凍った噴水の柱を回り込んで登っていたんだ。

 白ユキヒョウの神ネコさまは歩みを進めながら、

『時間は十分にありました。ならそれでいいでしょう。どうしてこれ以上説明をする必要があるの?』

 と冴え冴えとする声で誰にともなく語り掛ける。

 一歩一歩の優雅さと、その物言いがピタリとかみ合っている。だからだろうか、尋ねられた炎の神ネコさまは、

『い、いえ、それは……』

 と、身を竦めていた。

『責めているわけではないの。広く規定を知らしめる、それがあなたの役割。分かっているわ』

 炎の神ネコさまの少し下まで登ってきた白ユキヒョウの神ネコさまは、そこで長い尻尾をゆらりとくねらせ、

『でもね』

 と、宙の何もないところを叩きつけた。

 衝撃は思ったよりもずっと大きく、ピシィッと冷たい音がして、氷の破片がわっと宙に舞い広がる。

『この時点で説明を受けなければならないような者に先はありません。放り込まれた環境を正しく認識し、自ら情報を集め、すぐに溶け込めないようでは結果は見えています』

 完走は出来ません、と。

 女神さまがそう言い切った時、ふと視線が合った気がした。茶色いマイケルは心臓の凍りつくような思いで、その、ほんの一瞬を長々と感じていたよ。

『私は忙しいのです。さ、始めましょう』

 だからその変化に気付いたのは、炎の神ネコさまと白ユキヒョウの神ネコさまとが、その場をタンッと離れてからだった。どこに行ったんだろうと目を動かす。すると、

 あれ、なんか暗くなってない?

「なっ! 上だ! いつの間に!」

 誰よりも早く叫んだのは灼熱のマイケル。弾かれたように空を見上げればそれはもうすぐそこまで来ていた。像だ。広場の真ん中あたりにでかでかと置かれていたあの巨大なネコの像が、空から降って来ていた。

 降って来て、そして凍った大噴水を容赦なく踏み潰した!

 地震というレベルをはるかに超えた大きな揺れに、目を開けているのに景色が白黒した。舌を噛んでしまいそうで口を閉じていたけれど、ただ耐えているだけでは足りないらしい。巨大なネコの像は、噴水を踏み潰すだけに留まらず、地面にどんどんどんどん食い込んで、めり込んで沈み込んで亀裂を広げ、ついには会場中を丸ごとのみ込むほどの大穴をあけてしまった……!

「「――はあああああ!?」」

 誰とも知れない声が茶色いマイケルたちを含めた全ネコの気持ちを代弁する。ぞっとするような浮遊感にしっぽが膨れ上がり、一瞬遅れてそこら中に悲鳴が響き渡った。

 だめだ、どこにも逃げ場がない……!

 地面は、そうはならないだろうというくらい粉々に砕け散ってしまっているし、壁にしがみつこうにも距離がありすぎる。何より1万匹のネコたちがぎっしりと詰まっていて身動きが取れないんだ。

「またか! また落ちるのか俺たちは!」

 そんな混乱の中、茶色いマイケルの目に留まったのは、巨大なネコ像だ。さっきよりもさらに加速しながら落下していっている。

「あれって、生きてる?」

 ネコの像がしっぽを振っているように見えたんだ。

『あー、あれは地核の神だぞー』

「えっ!? あれが!?」

 思わず声をあげると3匹のマイケルたちも状況そっちのけでそちらを見たよ。

『フォルムはスナネコなー。絶妙にブサイクでウケるだろー。なんであんなでけーのかは知らねーけど』

 なんてのんきな情報!

 地核の神ネコさまはあれよという間に闇の中へと溶けていき見えなくなった。

『それにしてもすげースピードだなー。やっぱ優勝狙ってくのかー?』

 風ネコさまの質問は、今まさに穴に落っこちている茶色いマイケルに向けてのものだった。嫌味かな。

「何言ってるのさ! 今それどころじゃないでしょ! ボクたち落ちてるっていうのに!」

『えーなんでだよー? 落ちてるなら浮きゃーいいじゃねーかー。ネコって飛べるんだしー』

 その言葉にハッとして、肩につかまっていた風ネコさまを見れば、クィッとアゴを上げて『あれ見てみ』と示された。そちらを見ると、

「あっ、使えるんだ!」

 茶色いマイケルたちの頭の上ではネコたちに大きな変化が起きていた。ギュッと詰まってせせこましいまま落ちていた1万匹のネコたちの間隔に、徐々に隙間が生まれつつあったんだ。

 ”芯”を使って浮いてるネコがいる……!

 落下速度を緩めるネコの中には見覚えのある者もいた。シルクハットの紳士ネコや鬼ネコ面のネコ、目深にフードを被ったネコだ。

 茶色いマイケルたちは誰から先にというわけでもなく芯に力を込めて、確かめるように加速を緩めていったよ。

「大丈夫だ、当たり前に使えるようだ」

「これってぇ風ネコさまの権能で助けてくれてるのぉ?」

『いーやー? ここはあわあわの領域だからなー、今使ってるのはあわあわの神の権能だぞー』

「そんな神さままでいるんだね……」

「おい、それよりもどうする、手を打つなら早い方がいいぞ!」

 灼熱のマイケルが他のネコたちを見回しながら尋ねる。

「放ってはおけないよねぇ」

「全員は無理だが手近な者たちだけなら……」

 助けられる。

 だけど助けられるネコの数は限られているだろう。

 茶色いマイケルは自分の小さな両の手を見て、なんで2本しかないんだ、あと5千本ずつあればみんな助けられるのに、と思ったよ。

 それでも……!

 今出来ることをやろう。と、目に力を込めた時だった。

「「うぉおおおおおちてるぅぅううううう!!」」

 と上からネコが落ちてきて、茶色いマイケルの開いた両腕にすっぽりと収まった。子ネコが抱えたのは、上半身裸の、2匹のサビネコ(成ネコ・雄)だった。

 へ、変態だぁぁあ!

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